電気に興味を持ったことと落書き帳
2023.02.08
始まりは、記憶が確かではない。
4歳か5歳だったかわからない。祖母の店(雑貨・食料品・たばこ)に冷蔵庫の修理に来ていた業者から、テスターを見せてもらって興味を持ったのは覚えている。赤・黒を接触させると針が振り切って、いま思えば、あれはゼロΩ調整だったんだなと。
叔父が電力会社に勤務していた事とか。
電気工事の屋内配線図を眺めて書き写したりとか。
オートメカニックとか自動車整備の雑誌を見て、特に電装系に興味をひかれて、その解説図ばかり見ていた覚えもある。あれは点火タイミングか何かの回路だったのか、仕組みが書かれていた。
身近にあった機械は、とにかく片っ端から分解して台無しにした。ラジオとかレコードプレーヤーとか、カメラや時計も。
そういった物は、使うのではなく、分解される為にあるのだと。
家具調テレビの後ろに潜り込んで、通気孔から中をのぞきこみ、中に人が入っていないか確かめようとした。
通気孔をほじくって割って広げ、その穴から鉛筆などを投げ込んでショートさせたりもした。そうすると電器屋さんが修理に来て、テレビの内部を堂々と見る事ができる。
落書き帳(白紙が綴じてある)を買ってもらい、思いつくままに回路図っぽいものを描いてみたり、あるいは発電所から自宅までの流れを延々と何ページにも渡って描いた。
電線2本がページの境界をまたぐ所では特に注意深く、切れ目がないように描いた。変なこだわりがあったものである。
まだ小学校に入る前だったと思うが、祖母に「叔父はどこ?」と聞いたら「きゅうでん」と答えた。その時の自分の脳内イメージは、「宮殿」で王様に仕える叔父の姿。意味不明。
この場合は九州電力のことで、略して九電。
新しくテレビを買った時に、添付されていた回路図を大事に保管して、何度も何度も広げて眺めて楽しい時間を過ごした。
保育所では、お遊戯の音楽には全く関心がなく、そのスピーカーの配線を追ってみることに執着していた。この線を追ってみると、別の部屋につながっていてレコードプレーヤーにつながっていた。ここに入ったらダメよと怒られただけ。
事務所の古い電話機(ダイヤル式)を3台もらって、電池をつないでお互いに通話できるようにして遊んでいた。ただ、ベルが鳴らないのは不満に思っており、この気持ちをその後何十年も引きずる事になる。
電話回線の電圧なんかも知らず、当時は書籍など身近になかった。適当に3ボルトをつないで試しただけ。
1979年に全国即時自動化といってダイヤル通話が全国でできるようになったけど、それまで自分の住んでいた町で使われていた農村電話、いらなくなったのであちこちからもらって、これも遊び道具になっていた。有線放送と呼ばれていた。(今のUSENとは無関係)
祖母の店は磁石式といってハンドルが右側に付いているやつ。今も鉄道関係で見かける事がある。
多くの家にあった電話機は、ダイヤルの代わりにスピーカーとボリュームが付いていた。受話器を上げれば交換台の人が出るので、番号を告げてつないでもらう方式だった。
フックボタンは赤いのがあって、通常、受話器をかけただけだとONにならないように深くなっていた。指で押さないとONにならない。非常時に使うと聞いている。
また、フックボタンの部分を内側からビスをゆるめて取り外し、クルッと回して付け直すと、電話機が壁掛けにできる仕組みになっていた。
お昼ごろには、そのスピーカーから放送が流れていたのを覚えている。
郵便局の配達員さんが店を休憩所に使っており、その放送を聞きながら休憩されていたのを覚えている。
畑の中にスピーカー(運動会などで設置されるアレだ)が立ててあり、そこからも放送が聞こえていた。
農村電話は、農協が運営していたと思う。すぐ近所の建物(とっくの昔に更地)に交換台があったようだがハッキリしない。機械が撤去された後は、集会所などとして利用されていたようだ。
いまも防災行政無線で朝昼夕方の時報とか、農協から、農薬を何アールあたりどのくらい使えとかそういった放送があるので、やっていることはあまり変わってないかも。(都会だと、うるさいって苦情が来そう。何しろ朝6時から音楽が鳴って起こされる)
町民センターに、その交換台が長年保存されていたけど、近年、役場とともに建て替わり、まだ行ってないのでわからないが捨てられてしまったのではないかと気になっている。
同じ交換台は門司の電気通信レトロ館にあって、実際に試す事ができる。
こういった経験から、特に電気通信には興味を深めていた。
電話線の電圧って何ボルトだろう、ベルを鳴らすにはどうしたらいいのだろう。このふたつの疑問を長年引きずっていた。
とりあえずコンセントに電話機のコードの先端をつっこんだらベルが鳴り出したので、これで鳴るんだとわかったが、危なくて使えない。
電話線の電圧を知ったのは、ふとした事がきっかけで、学校の放送室に転がっていた電電公社のパンフレットに書いてあった。小学校6年の時の大発見。(個人的な大発見)
標準48ボルトか・・・(規格では、たしか42~56Vの範囲)
だけどそんな電源は身近にない。考えてみれば、掛け算九九で、9ボルトの四角い電池を5本直列にすればいいじゃないかと。
それで近所の店へ、買いに走ったっけ。
電池スナップなんか近くで売ってないから、電線の先端をむいて端子に巻き付けたりセロハンテープでとめたり、いまいち頼りない結線方法を最初やっていた。
よく考えてみると、プラス・マイナスの端子を互い違いに組み合わせれば簡単に直列にできる。
両端の接続は仕方ないが、とにかく直列にして、自分の持っている電話機につないでみた。
それでもベルは鳴らない。通話はできる。通話だけなら48Vもいらない。数ボルトでも2台つないで話せる。
ベルを鳴らす回路に到達するまで相当な年月を要した。やっぱりトランスも特注になる。DC-DCコンバータも作ってみた。ニキシー管用に作ったものを流用して、電圧だけ変更してみたりとか。トランジスタでON/OFFする回路を組み合わせ、なんとかベルが鳴るところまで来た。
秋月のPBXキットも参考になったが、アンプICが妙に熱くなるのが気に入らなかった。それで独自に作ろうとしたっけ。
ごちゃごちゃ書きましたが・・・とりあえずここまで。
4歳か5歳だったかわからない。祖母の店(雑貨・食料品・たばこ)に冷蔵庫の修理に来ていた業者から、テスターを見せてもらって興味を持ったのは覚えている。赤・黒を接触させると針が振り切って、いま思えば、あれはゼロΩ調整だったんだなと。
叔父が電力会社に勤務していた事とか。
電気工事の屋内配線図を眺めて書き写したりとか。
オートメカニックとか自動車整備の雑誌を見て、特に電装系に興味をひかれて、その解説図ばかり見ていた覚えもある。あれは点火タイミングか何かの回路だったのか、仕組みが書かれていた。
身近にあった機械は、とにかく片っ端から分解して台無しにした。ラジオとかレコードプレーヤーとか、カメラや時計も。
そういった物は、使うのではなく、分解される為にあるのだと。
家具調テレビの後ろに潜り込んで、通気孔から中をのぞきこみ、中に人が入っていないか確かめようとした。
通気孔をほじくって割って広げ、その穴から鉛筆などを投げ込んでショートさせたりもした。そうすると電器屋さんが修理に来て、テレビの内部を堂々と見る事ができる。
落書き帳(白紙が綴じてある)を買ってもらい、思いつくままに回路図っぽいものを描いてみたり、あるいは発電所から自宅までの流れを延々と何ページにも渡って描いた。
電線2本がページの境界をまたぐ所では特に注意深く、切れ目がないように描いた。変なこだわりがあったものである。
まだ小学校に入る前だったと思うが、祖母に「叔父はどこ?」と聞いたら「きゅうでん」と答えた。その時の自分の脳内イメージは、「宮殿」で王様に仕える叔父の姿。意味不明。
この場合は九州電力のことで、略して九電。
新しくテレビを買った時に、添付されていた回路図を大事に保管して、何度も何度も広げて眺めて楽しい時間を過ごした。
保育所では、お遊戯の音楽には全く関心がなく、そのスピーカーの配線を追ってみることに執着していた。この線を追ってみると、別の部屋につながっていてレコードプレーヤーにつながっていた。ここに入ったらダメよと怒られただけ。
事務所の古い電話機(ダイヤル式)を3台もらって、電池をつないでお互いに通話できるようにして遊んでいた。ただ、ベルが鳴らないのは不満に思っており、この気持ちをその後何十年も引きずる事になる。
電話回線の電圧なんかも知らず、当時は書籍など身近になかった。適当に3ボルトをつないで試しただけ。
1979年に全国即時自動化といってダイヤル通話が全国でできるようになったけど、それまで自分の住んでいた町で使われていた農村電話、いらなくなったのであちこちからもらって、これも遊び道具になっていた。有線放送と呼ばれていた。(今のUSENとは無関係)
祖母の店は磁石式といってハンドルが右側に付いているやつ。今も鉄道関係で見かける事がある。
多くの家にあった電話機は、ダイヤルの代わりにスピーカーとボリュームが付いていた。受話器を上げれば交換台の人が出るので、番号を告げてつないでもらう方式だった。
フックボタンは赤いのがあって、通常、受話器をかけただけだとONにならないように深くなっていた。指で押さないとONにならない。非常時に使うと聞いている。
また、フックボタンの部分を内側からビスをゆるめて取り外し、クルッと回して付け直すと、電話機が壁掛けにできる仕組みになっていた。
お昼ごろには、そのスピーカーから放送が流れていたのを覚えている。
郵便局の配達員さんが店を休憩所に使っており、その放送を聞きながら休憩されていたのを覚えている。
畑の中にスピーカー(運動会などで設置されるアレだ)が立ててあり、そこからも放送が聞こえていた。
農村電話は、農協が運営していたと思う。すぐ近所の建物(とっくの昔に更地)に交換台があったようだがハッキリしない。機械が撤去された後は、集会所などとして利用されていたようだ。
いまも防災行政無線で朝昼夕方の時報とか、農協から、農薬を何アールあたりどのくらい使えとかそういった放送があるので、やっていることはあまり変わってないかも。(都会だと、うるさいって苦情が来そう。何しろ朝6時から音楽が鳴って起こされる)
町民センターに、その交換台が長年保存されていたけど、近年、役場とともに建て替わり、まだ行ってないのでわからないが捨てられてしまったのではないかと気になっている。
同じ交換台は門司の電気通信レトロ館にあって、実際に試す事ができる。
こういった経験から、特に電気通信には興味を深めていた。
電話線の電圧って何ボルトだろう、ベルを鳴らすにはどうしたらいいのだろう。このふたつの疑問を長年引きずっていた。
とりあえずコンセントに電話機のコードの先端をつっこんだらベルが鳴り出したので、これで鳴るんだとわかったが、危なくて使えない。
電話線の電圧を知ったのは、ふとした事がきっかけで、学校の放送室に転がっていた電電公社のパンフレットに書いてあった。小学校6年の時の大発見。(個人的な大発見)
標準48ボルトか・・・(規格では、たしか42~56Vの範囲)
だけどそんな電源は身近にない。考えてみれば、掛け算九九で、9ボルトの四角い電池を5本直列にすればいいじゃないかと。
それで近所の店へ、買いに走ったっけ。
電池スナップなんか近くで売ってないから、電線の先端をむいて端子に巻き付けたりセロハンテープでとめたり、いまいち頼りない結線方法を最初やっていた。
よく考えてみると、プラス・マイナスの端子を互い違いに組み合わせれば簡単に直列にできる。
両端の接続は仕方ないが、とにかく直列にして、自分の持っている電話機につないでみた。
それでもベルは鳴らない。通話はできる。通話だけなら48Vもいらない。数ボルトでも2台つないで話せる。
ベルを鳴らす回路に到達するまで相当な年月を要した。やっぱりトランスも特注になる。DC-DCコンバータも作ってみた。ニキシー管用に作ったものを流用して、電圧だけ変更してみたりとか。トランジスタでON/OFFする回路を組み合わせ、なんとかベルが鳴るところまで来た。
秋月のPBXキットも参考になったが、アンプICが妙に熱くなるのが気に入らなかった。それで独自に作ろうとしたっけ。
ごちゃごちゃ書きましたが・・・とりあえずここまで。
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