PC98のボード製作
2024.11.14
いわゆるCバス、後ろの拡張スロットに差し込むボードを作った時の思い出
30年以上前か、
最初はわからないから、製作記事に書いてある通りに作ったが・・・
先に言うと、記事の内容は鵜呑みにしてはいけない。これは鉄則。たいてい間違っているか、何かの問題を抱えている。次の号に訂正が載ったりする。
GALライタ用の8255ボードも、あとで見返してみるとアドレスデコードが手抜きだった。それで確かFM音源と干渉していた。
当時使っていたPC-9801UV11はFM音源内蔵だったもんな。そして記事の筆者はおそらくFM音源無しの機種だったんだろう。
前にも書いたけど、PC98で使えるI/Oポートは限られているので、他との干渉を常に考えなければならない。ハードウェアリソースの管理は自分自身で行う必要があった。これは当たり前だった。
プラグアンドプレイなんてのが出てくるずっと前のこと。
いわゆるAT互換機とかDOS/Vといっていた米国パソコンでも、ISAバスの頃はアドレスだのIRQだのを自分で管理していたのである。
COMポートとかパラレルポートのアドレス、いまでもなんとなく覚えている。もう意識しなくて良い時代だけど。
ボード上のジャンパーピンを差し替えたりしてだな・・・特にIRQが不足した経験があり、パソコン通信のホストを運営していた頃で、COMポートがたくさん欲しかった。
ホストだからパラレルポートは使わない。それ用のIRQを流用しよう。
ところがボード上のジャンパーポストにはその設定がない。他のIRQは有るのに。
そしてボードに金端子は有るけど配線されてない。よし、慎重に(マスキングして、金メッキにハンダが流れないように)細い線をつないで、これでIRQ増設できたぞ、そんな感じ。
記憶がハッキリしないけど、金端子がなかったので銅箔テープを切って貼り付けて、こんなので接触は大丈夫かと思いながら試したような気もする。
抜き差しで剥がれないように、よくこすりつけて貼り付けたのは覚えている。これはこの時だったのか、別の試作の時と記憶が重なっているのか、わからない。
当時の勤務先で、誰かが「金端子1個あたりのコスト」を言い出して、それじゃ空きピンは削除しないといけないね、という事になったが、あとで欲しくなった時に困るのに気づいて、あれこれ考えず全部の端子を出しておこうという流れになったのは覚えている。
目先のコストだけ考えるとこうなる。1個あたりのコストなんて当時でも駄菓子が買えないぐらいだったか。5円チョコよりは高くて10円ガムより安い程度。
さらに、あとで追加配線しやすいように金端子のそばにスルーホールを全ピンに対して配置するようになった。(スペースの許す限り)
数十年ぶりにCバスのことを考えていて、当時のことをスッカリ忘れたなあと思った。
当時は主に仕事で色んな物を作ったはずだが、あの勢いはどこへやら。若かったせいか。
今では、どんな回路だったっけ?という感じ。やってないと忘れるもんだな。運転も忘れかけている。(ペーパードライバー5年目)
何を作ったっけ。
通信関係のボードを自作した。詳細は忘れた。用途は検査治具といって、製品を検査ラインで検査するときに、その基板とつないでテストする。
たとえば通信を試すのに、相手がいないとできないでしょう。その相手側を作ったようなもの。
RS422だったか485だったか、その時に初めて使ったっけ。シールドのツイストペア線を長く引き回したりして。
そして画像検査のボード。これは当時のFPGA(XILINX)を2段重ねにした。集積度が低い頃だから、1個じゃ足りなくて。
とある食品の破れ、穴開き、異物を検査する目的に使う。破れとか聞いた時点でアレだなと気づくだろう。
開発段階では、この手作りボードをPC98に差し込んで、PC98上のプログラムでテストした。製品の基板はPC98を組み込むわけにはいかず、超高速のマイコンをベースにした回路になった。
メカが絡んだ開発は、この時が自分は初めてだったような。メカの筐体とPC98の両方になんとなく手を置いたら微妙にビリビリしびれた。電位差があったんだな。そして、この電位差でカメラを壊してしまい、CCDを取り寄せて自分で直した。当時はカメラも手作りしていた。
ちなみにPC98と書くが面倒なので略しているだけ。NECの製品ラインナップの中でPC98という型番は中途半端で互換性がない機種が多い。私も持っていたPC-98LTとか。
他にも何か作ったっけ。確か、急ぎで試作するものがあって自分が個人で持っていたサンハヤトのCバス用ユニバーサル基板を会社に提供した事があったような。(あとで買ってもらった)
もう忘れたなあ。
当時はVMEという産業用のバスが標準的で、CPUボード、メモリボード、I/Oボードなど取り揃えていた。486を搭載したPCをVMEダブルハイトに詰め込み、売っていた時代だった。
ビデオチップはET4000だった。MS-DOSか、Windows3.1を動かしていた。
VMEのユニバーサル基板も当時サンハヤトから売られていて、確かDIN1??Eだったっけ。ダブルハイトサイズ。検査治具を作るのに使った。当時、配線は下手だった。でも自分のやり方を信じていて考えを曲げなかった。ああしろ、こうしろと周囲に言われたけど。
そしてマルチバス。これは8086系のバスという認識。やはり産業用で、スリーダイヤさん向けの半導体ごにょごにょの関係で使う事が多かった。私もいくつか設計した。いまも有るのだろうか? そういえば初めての仕事はマルチバスの基板をワイヤーラッピングで手作りしたのだった。ボンダーの制御基板だったっけ。山一のラッピングソケット。そしてサンハヤトの変換基板。
ピンを抜こうとして格闘していたら指にさしてケガした事ぐらいしか覚えてない。
そして定時になり、また明日続きをするつもりでそのまま置いて(電線の切り屑などを散らかしたまま)帰ろうとしたら、ぶちょーが「お前、片付けてから帰れよな」
そこで「明日続きをしますんで」と言い訳した自分、当然怒られた。いまではわかるけど、当時は何もわかってなかった頃。
なんか、こんな事ぐらいしか覚えてない。
30年以上前か、
最初はわからないから、製作記事に書いてある通りに作ったが・・・
先に言うと、記事の内容は鵜呑みにしてはいけない。これは鉄則。たいてい間違っているか、何かの問題を抱えている。次の号に訂正が載ったりする。
GALライタ用の8255ボードも、あとで見返してみるとアドレスデコードが手抜きだった。それで確かFM音源と干渉していた。
当時使っていたPC-9801UV11はFM音源内蔵だったもんな。そして記事の筆者はおそらくFM音源無しの機種だったんだろう。
前にも書いたけど、PC98で使えるI/Oポートは限られているので、他との干渉を常に考えなければならない。ハードウェアリソースの管理は自分自身で行う必要があった。これは当たり前だった。
プラグアンドプレイなんてのが出てくるずっと前のこと。
いわゆるAT互換機とかDOS/Vといっていた米国パソコンでも、ISAバスの頃はアドレスだのIRQだのを自分で管理していたのである。
COMポートとかパラレルポートのアドレス、いまでもなんとなく覚えている。もう意識しなくて良い時代だけど。
ボード上のジャンパーピンを差し替えたりしてだな・・・特にIRQが不足した経験があり、パソコン通信のホストを運営していた頃で、COMポートがたくさん欲しかった。
ホストだからパラレルポートは使わない。それ用のIRQを流用しよう。
ところがボード上のジャンパーポストにはその設定がない。他のIRQは有るのに。
そしてボードに金端子は有るけど配線されてない。よし、慎重に(マスキングして、金メッキにハンダが流れないように)細い線をつないで、これでIRQ増設できたぞ、そんな感じ。
記憶がハッキリしないけど、金端子がなかったので銅箔テープを切って貼り付けて、こんなので接触は大丈夫かと思いながら試したような気もする。
抜き差しで剥がれないように、よくこすりつけて貼り付けたのは覚えている。これはこの時だったのか、別の試作の時と記憶が重なっているのか、わからない。
当時の勤務先で、誰かが「金端子1個あたりのコスト」を言い出して、それじゃ空きピンは削除しないといけないね、という事になったが、あとで欲しくなった時に困るのに気づいて、あれこれ考えず全部の端子を出しておこうという流れになったのは覚えている。
目先のコストだけ考えるとこうなる。1個あたりのコストなんて当時でも駄菓子が買えないぐらいだったか。5円チョコよりは高くて10円ガムより安い程度。
さらに、あとで追加配線しやすいように金端子のそばにスルーホールを全ピンに対して配置するようになった。(スペースの許す限り)
数十年ぶりにCバスのことを考えていて、当時のことをスッカリ忘れたなあと思った。
当時は主に仕事で色んな物を作ったはずだが、あの勢いはどこへやら。若かったせいか。
今では、どんな回路だったっけ?という感じ。やってないと忘れるもんだな。運転も忘れかけている。(ペーパードライバー5年目)
何を作ったっけ。
通信関係のボードを自作した。詳細は忘れた。用途は検査治具といって、製品を検査ラインで検査するときに、その基板とつないでテストする。
たとえば通信を試すのに、相手がいないとできないでしょう。その相手側を作ったようなもの。
RS422だったか485だったか、その時に初めて使ったっけ。シールドのツイストペア線を長く引き回したりして。
そして画像検査のボード。これは当時のFPGA(XILINX)を2段重ねにした。集積度が低い頃だから、1個じゃ足りなくて。
とある食品の破れ、穴開き、異物を検査する目的に使う。破れとか聞いた時点でアレだなと気づくだろう。
開発段階では、この手作りボードをPC98に差し込んで、PC98上のプログラムでテストした。製品の基板はPC98を組み込むわけにはいかず、超高速のマイコンをベースにした回路になった。
メカが絡んだ開発は、この時が自分は初めてだったような。メカの筐体とPC98の両方になんとなく手を置いたら微妙にビリビリしびれた。電位差があったんだな。そして、この電位差でカメラを壊してしまい、CCDを取り寄せて自分で直した。当時はカメラも手作りしていた。
ちなみにPC98と書くが面倒なので略しているだけ。NECの製品ラインナップの中でPC98という型番は中途半端で互換性がない機種が多い。私も持っていたPC-98LTとか。
他にも何か作ったっけ。確か、急ぎで試作するものがあって自分が個人で持っていたサンハヤトのCバス用ユニバーサル基板を会社に提供した事があったような。(あとで買ってもらった)
もう忘れたなあ。
当時はVMEという産業用のバスが標準的で、CPUボード、メモリボード、I/Oボードなど取り揃えていた。486を搭載したPCをVMEダブルハイトに詰め込み、売っていた時代だった。
ビデオチップはET4000だった。MS-DOSか、Windows3.1を動かしていた。
VMEのユニバーサル基板も当時サンハヤトから売られていて、確かDIN1??Eだったっけ。ダブルハイトサイズ。検査治具を作るのに使った。当時、配線は下手だった。でも自分のやり方を信じていて考えを曲げなかった。ああしろ、こうしろと周囲に言われたけど。
そしてマルチバス。これは8086系のバスという認識。やはり産業用で、スリーダイヤさん向けの半導体ごにょごにょの関係で使う事が多かった。私もいくつか設計した。いまも有るのだろうか? そういえば初めての仕事はマルチバスの基板をワイヤーラッピングで手作りしたのだった。ボンダーの制御基板だったっけ。山一のラッピングソケット。そしてサンハヤトの変換基板。
ピンを抜こうとして格闘していたら指にさしてケガした事ぐらいしか覚えてない。
そして定時になり、また明日続きをするつもりでそのまま置いて(電線の切り屑などを散らかしたまま)帰ろうとしたら、ぶちょーが「お前、片付けてから帰れよな」
そこで「明日続きをしますんで」と言い訳した自分、当然怒られた。いまではわかるけど、当時は何もわかってなかった頃。
なんか、こんな事ぐらいしか覚えてない。
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