専門学校
2023.01.05
工業高校を卒業したらどうするか、就職するかは決めかねていて、どうしたもんだろうなと、当時悩んだものでした。

周囲の同級生から、就職どこにするか決まった?なんて聞かれたりして、余計にあせりました。みんな進んでるんだ。自分なにも決めてない。あせるばかり。

大学も一応考えましたが、成績表が現実を教えてくれました。

工業高校の実習助手の道もあるよ?と先生から教えてもらったりもしました。それも悪くないなと一時考えました。

いずれにしても、すぐ就職することは考えられませんでした。

専門学校だと無試験(書類選考)か、有っても面接ぐらいで行けるので楽勝だなと。その2年か3年の間に就職を考えようと。

いろんな学校のパンフレットを取り寄せましたけど、あとで大変なことになりました。大変というのは、それぞれの学校からセールス電話がかかってきて、その対応に追われたわけです。

パンフレットだけでなく、学校紹介のビデオテープを送ってきたところもありました。

コンピューターや電子工学以外にも、なぜかパイロットの学校もあり、学校名は忘れたけど、とにかく無料だとか。国の関係機関なので無料でできるそうです。もう忘れましたけど、とにかく無料でパイロットになれるという夢のような学校でした。(現実は甘くないでしょうけどね)

間違ってそこに行っていたら、また違った人生を歩んでいたかもしれません。やっぱり落ちこぼれていたかも。

京都コンピュータ学院などのパンフレットも見ましたけど、よそで暮らす勇気がなかった。知らない土地にひとりで行くなんて。

最終的に、県内の専門学校に入学を決めたわけです。

その半年ぐらい前、無線部の活動で長崎市内での試合を撮影に行った事があり、当時は陸上競技場があって、そこに立った時に何となく、この土地で暮らす日が来るような気がすると思ったのでした。まさかそれが現実になろうとは。

10名前後の下宿屋に入り、最初は2人しかいなくて徐々に仲間が入って増えてきました。

たまたま自分の部屋を開けっぱなしにしていたら、廊下を通りがかったヤツが私の部屋のパソコン(MZ-2000)を見て、パソコンに興味あるの?俺も!ってな具合で、彼とは長いつきあいが始まりました。

自分は3年コースの学科に入ったけれど、なんと、5人しかおらず、まずは他科と一緒に授業を受ける事になりました。3年目だけが特別コースになるらしい。
2年目に希望を聞かれて、最初の5人の同期はいなくなったし、システム工学科として2年で卒業する道を選びました。

当時は汎用機のプログラマを養成する時代でした。メインフレームってやつです。

COBOLのバッチ処理とか。全然COOLじゃないCOBOLのプログラミングを、超遅いACOS-250で実習していました。

そのほか、アセンブラとしてはCASL(当時の情報処理技術者試験に出ていた)を習ったり、あとはC言語の講座もありました。

ただ、全般的にたるんだ学校だったと思います。先生たちもやる気がなかったんでしょうね。放棄して寝る先生とか、みんなとおしゃべりに夢中になる先生もいました。なんてひどい所に来たのだと。

1年で辞めてしまう人たちもいました。

こんな状況では、あとは自分の頑張りだけですよ。自分も含めて、気合の入った5人がグループとなり、いろんな事に挑戦していきました。

ソフトの学校なのに自分だけハードウェアを卒業研究のテーマに選んだりして・・・それで作ったのがZ80のLED電光板付きのポータブルマイコン(現存)。

2年間は当時は長く感じた。いまの2年間とは感覚が違う。もう戻れないけど。
平成5年頃
2023.01.05
あの当時は一番盛り上がった、ピークだったと思う。最盛期。

無線には縁がないと思っていた人からも、教えてくれとか試験の参考書貸してとか言われた。マイナーな趣味だと個人的に勝手に思っていたのに。これだけ一般に浸透しているのかと思った。

会社のお姉さんたちも車に無線機を積んだりして、通勤途中に会社の仲間と喋ったりとか。

当時、私は1回目の自動車学校に挫折して、会社就職後、2回目の自動車学校に(無銭だからローンで)しぶしぶ通っていた。仮免も卒業検定も何度も繰り返し、そのたびに欠勤したのでますます無銭に拍車がかかり、なんとか半年かかってギリギリ卒業。
その送迎バスを運転されていた教官からも、無線に興味があるから色々教えて欲しいという話。参考書を差し上げました。

こんなふうに、周囲のみんなが無線をやっていたり新たに始めようという時代でした。

それが平成7~8年頃になると、PHSとか携帯が入手しやすくなり、そちらに移行していく方が増えていったと思います。

私はどちらかというと平成5年の段階で、パソコン通信に強い興味を持っていて、自らホスト局の運営をしていたぐらい。ずいぶんお金をつぎ込み、やっぱり無銭になりました。
平成10年頃にはパソコン通信は下火となり、インターネットへ移行していきました。ホスト局の電源を落としたのも、その頃だったと思います。

電源を落とした後も、回線を解約せずにそのままにしておいたら、たまに着信音が聞こえる事がありました。ISDNターミナルアダプタのリレーがカチカチ鳴ったりして。
わざわざ接続して来られた方には申し訳ない気持ちがありました。

なんだか違う話になりました。結局、無銭というのが共通点だったと思います。
製図の時間に紙を用意しないとは何事だ
2023.01.05
工業高校の話の続き。

製図の実習が有ったのだが、その初回の話。

クラスのみんな、とりあえず製図室に入って席に座って待っている。そこへ先生がやってきて開口一番、
「製図の時間に紙を用意しないとは何事だ」

みんなキョトン、

誰かが「事前に聞いていません」

先生は、「製図だから紙が必要に決まっている。お前らは、なんでわからないのだ」とか言う。(当時の細かい話は失念)

また誰かが「製図の仕方の講義があるのだと思っていました」

先生、「それはお前が勝手にそう思っただけだろ」という。

とにかく、
「納得できない、という者は外に出て並びなさい」

ちょうど中庭みたいになっていて、納得できない連中が何人か並んだ。先生に立ち向かっていく。

ところが先生は柔道の黒帯で体格が良い。ガッチリした体型で、いつも胸をはって、ふんぞり返って歩いている。武士は歯を見せて笑うものではない、とか色々言う。何を気取っているんだ(笑)

見た感じ、ダルマに似ているので密かにダルマと名付けられた。
(ほかに、たけし軍団のダンカンに似ているので私がダンカンと名付けた先生もいる。おっといけない。まだ現役なので、お前の卒業取り消すぞと言われたら困る)

先生に立ち向かう連中。無謀にも。
次々に張り倒されていく。見ていて、かなうわけがないと思う。

理不尽な事を言って、反抗するヤツは絶対に俺にはかなわないんだということを「一番最初に」刻み込むんだろうな。

立ち向かった連中以外は、みんなあわてて購買部に紙を買いに並んだ。
いつも休み時間にしか買物に来る者がいないから、何事かと購買部もあせったと思う。

あのダルマ、のちに某進学校の校長になっていた。やっぱり当時と同じような事を言っていた模様。

「それがお前の限界か!」 と。 (そんな事を言っていたら、きりがないじゃない)

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