最初の出会い
2023.12.28
私の最初のパソコンはSONY HB-101だった。
事前に色々迷ったが、買いに行ったところで、たまたま店に有って良さげだったのでそれに決めたっけ。

その前に、どれを買おうかとカタログを見たりしながら(予算も考えながら)迷っていた。
日立H1もいいなあ、でも高いな、カシオPV-7は安いな、でもメモリが少なくないか。あとで増やす?
MSXが良さそうだけど、MSX以外も検討してみるか、SC-3000もカシオのPV-7と同じような感じだな。BASIC内蔵な分だけ、PV-7のほうが良いか。
・・・こんなふうに迷っていた。

さて、SC-3000との出会いはHB-101購入後1年以上経過してからだった。
それは全くの偶然というか、何かのめぐり合わせ。

当時「ラジオの製作」という雑誌を定期購読していて、その売り買いコーナー。

「買い」ますコーナーなのに、SC-3000とソフト等をまとめて4.6Kで「売り」ます、って書いてある。
こりゃあ、間違って掲載したなと思い、(誰も気づいてない事を祈りながら)とりあえずその人に問い合わせてみたら、まだ売れてないという。
ラッキー、安価で一式揃ってしまった。
本体SC-3000H、BASIC L3B、ロードランナー、ジッピーレース、(名前忘れた)、ジョイスティック、電源アダプタ

その当時は、相手の住所・氏名・電話番号がそのまま掲載されており、基本的に本人と直接連絡をとりあって取引をしていた。文通欄も、読者の声のコーナーも同様だった。特に匿名希望にしない限り、そのまま掲載された。

掲載の文字数制限があったので、独特の略語があった。W〒は往復はがき。SASEは返信用封筒同封。Kは千円単位(例えば10Kなら1万円、0.7Kは700円)

個人情報の取り扱いにうるさい現代とは違って、おおらかな時代だった。
それだけに、いたずらや不幸の手紙を送るなどの問題もあった。

身内が漫画雑誌に文通友達の募集を載せたら、不幸の手紙がドッサリ届いて大ショック。
50通以上は有っただろうか、切手を貼ってないものが多く、その意味では実害があった。
何が楽しくてわざわざこんな物を送ってくるのか意味不明だった。
普通に文通の申し込みで来た手紙も、多くて処理しきれない。返事くれないんですか、無視ですかってキレちゃう人もいたと思う。もう、めちゃめちゃ。どうしようもない。処理が追いついてない。切手代もかかる。

子どもの頃だから、思いつきで文通の友達を募集したのかもしれないけど、これが現実の厳しさ。
でも、その中でも良い友達をみつけて長く続いたようで結果的には良かった。


脱線してしまったが、奇妙なめぐり合わせからSC-3000Hを手に入れてしまったというお話。
散多菩薩法要
2023.12.28
もう過ぎてしまったが、和風に言うと散多菩薩法要とその前夜祭

(要するにサンタクロース)

幼い頃は純粋だったから、その存在を信じていた。(ちょっと疑ってもいた)

赤い服着た怪しいおじさんが夜に煙突から侵入してくる。盗みじゃなく、置いていくのだから許されるのかなと。

ところが、うち(当時住んでいた戦前からの古い家)には人が入れるような煙突は無かった。

仮に、人が入れるサイズであっても、暖炉で火を燃やしているところに入れないだろうとは思った。

うちにあった煙突は、風呂用とトイレ用だった。

風呂は五右衛門風呂だった。長州風呂といったほうが正確かもしれないが五右衛門風呂のほうが通じやすい。
木の廃材や皮、燃えるゴミを燃料としていた。
その湯加減は難しい。いまのように、温度セットしておけば自動で湯をはってくれるものとはまるで違った。沸騰させようと思えばできるようなもの。
外で燃料をくべながら、煙が目にしみながら、手を突っ込んだりかき回したりして湯加減をみていた。

トイレはいわゆるボットン式で、あの深い穴が恐怖だった。子供の頃は足がすくんで、その便器の近くを歩くのが恐怖だった。落ちるんじゃないかと。
その煙突というか臭突の先端には、風でくるくる回るものが付いていた。台風のたびに吹っ飛んで、落ちたのをかぶせる事の繰り返しだったが、何回目かに壊れてしまいそれっきり放置した。

いずれにしても、直径でどれくらいだったか、せいぜい数十センチであんな太ったオジサンが入ってこれるサイズではない。
トイレの臭突なんか、汚いから入ってこないだろう。

うちは人が入れる煙突ないから散多菩薩様は来れないのかなあ、なんて疑問を親にぶつけていたかもしれない。覚えてない。

それでも、その日の夜にコソッと庭に出て、これらの煙突のあたりに立ち、夜空を眺めたのだった。
技術家庭科
2023.12.28
中学生の頃は特に好きな教科のひとつだった。色々作るのが面白い。

■行灯の製作
これは小さな蛍光灯を仕込んだもので、当時は照明用LEDなんか無いから10W程度の蛍光管とソケットと、グロー管とソケットと、安定器とスイッチから構成されていた。
グロー球ソケットには並列にセラミックコンデンサを接続する。ラジオ等への雑音防止用との事だった。

配線の前に木工で筐体を組み上げる必要があった。

必ず、先生の確認が済んでから通電しなさい、と言われていたにもかかわらず、いきなりコンセントにぶっ刺そうとしたやつがいて、先生から大声で怒鳴られていたっけ。
「○○○(名前)!! 学校中のヒューズをとばすつもりかバカモン!!!!」

学校中のヒューズというのはオーバーで、この教室のブレーカーだけだろと言いたかったが、それぐらい言わないと説得力がないんだろうな。
ただ、実際に先輩たちの中でショートしてしまった奴がいたのだろう。

個人的には、この10W程度の小さな蛍光管で思い出したのは雑誌の製作記事の電池で点灯させるやつで、先生にその回路を紹介した事がある。

電池で蛍光灯を点灯させる事にはその後も執着し、のちに親父の車のヒューズを飛ばしてしまったのである。(笑)

■電話機の製作
これは我々の頃には無くなった。1年上の先輩たちまで。残念。
なぜかというと、(1)認定を受けていない機器、(2)無資格での電話工事、この2点が問題だったが、黙っていればわからないといえばわからない。
発端は、その自作した電話機の故障だったようだ。それで電話局に連絡したら、この電話機が問題だと。これはどうしたんだと言えば、学校で作ったものだと。(このあたりの流れは直接じゃないので想像を含む。最終的に学校へ連絡があったようだ)

とにかく先生から、今年から電話キットは製作しない、という話。

よくまあ、電話機のキットなんか売られていたもんだなと思う。自由な時代だった。電電公社の民営化後で、実際、市販品にも未認定の電話機など意外とあったと思う。端末自由化によって市販品の電話機が増えた頃だった。
このキットは、当時の初歩のラジオの科学教材社の広告を見ると載っている。
壁掛け式のハンディテレホンだった。

■インターホン等の製作
インターホンや電子オルガンなど、好きな物を選んで作れというわけで、みんな製作に取り組んだ。
今のように基板組み立て済みとかではなく、部品を1個ずつ差し込んでハンダ付けしていく。当然のように、鳴らないとか電解コンデンサが弾けるといったトラブルが有る。
インターホンは2台だから作りがいがありそうだったが、2台間をつなぐ配線がフラットケーブルというのがダサくて気分が上がらなかったので、電子オルガンを作った。
部品点数も少なく簡単だったので、すぐにできてしまった。
こんな物を作るくせに演奏はできなかったので、適当にプープー鳴らしていたらクラスの女の子たちが、貸してというので渡したりして、教室で鳴らして遊んだ。
そのうちに、何故か音楽が自動的に鳴り出したので驚いた。何をどういう操作した?
わかんないから適当にボタンを複数押したりすると、音楽が鳴り出す事がわかった。
まさに裏技発見である。
こいつのICには電子オルゴールの機能も内蔵されているようだ。
どこをどうすればどの曲が鳴るか、その発見に熱中した。
但し、この音楽演奏をすると出力のトランジスタが熱くなる。それで隠されている機能なのかもしれなかった。

■椅子の製作
木工はそれほど萌えなかったが、でもやっぱりやってみると面白いし、実用性もあって家で使ったし、良かった。
この時に新しく知ったのは角穴をあけるキリがあるということ。
これをボール盤に取り付けて、こうすれば、ほら、四角い穴があくぞと先生の実演。
ドリルは丸穴しかあかない物とそれまで思っていたので目からウロコとはまさにこのこと。

まあ、でもある程度はカットされて加工の済んだ材料だったので、ヤスリをかけたりボルトでとめるのが主な作業だったが、
組み上がったところでニスを塗って仕上げた。
そのニスをあっさり塗っているのが当時の自分的には気に入らなくて、こってり厚塗りしてテカテカにしたかった。何度も重ねて塗って、テカテカにした。
先生に注意されたが、それでも目をぬすんでは塗り重ねた。

■エンジンの分解
教室にはエンジンがたくさん置いてあり、農機具とか発電機のエンジンだったが、これを分解する実習があった。
ところが自分たちの班は、ピストンを取り出すところまで至らなかった。分解の仕方がよくわからなかった。
どこを開けたらたどり着けるのだろうと。
手当たり次第にボルトをゆるめても、よくわからない。それよりも、戻せなくなったらどうするかって心配になり、余計に手が進まなかった。
お前こういうの得意じゃないのって同じグループの奴に言われたが、テレビなんかはたくさんバラしたがエンジンなんか開けたこともない。
手はオイルで汚れるし、なんか、パッとしない実習だった。

ただ、この当時・・・そうだ、エンジンでプロペラを回せば飛行機が作れるじゃないか!という妄想にとりつかれていた。今だったら、そんな単純なもんじゃないだろというツッコミを入れたいが・・・
飛行機の初期の頃の古い映像みたいに、走り出してバキバキと壊れて終わったみたいな感じになるだろう。
ベニヤとかで適当に機体とプロペラを作って飛ぶ気だったのか。小学生の頃の電気自動車妄想の再来のようなものだった。いずれも実際に作らなくて良かった。

ところで、これらのエンジンはどれも壊れたもので動かなかったが、1台だけ動くエンジンが置いてあり、これをみんな一人ずつ「かける」体験をした。
よし、紐を引いてエンジンをかけてみなさい。ブルン、おおっ、かかった。
この体験以来、クラスでは「エンジン」(円陣)が流行した。
球技の中などで気合をいれる時なんかに、円陣を組んで「エンジン」と掛け声をかけて、あのヒモをひっぱるアクションをする。

■栽培
もう何でもやるのが技術家庭科だった。
野菜作り。
校庭の端のほうを畑にして、みんなそれぞれの区画が割り当てられた。
土のpHをはかったり、肥やしを入れて耕したりした。
好きなものを植えて育てて収穫しろと。

自分は何だったか、茄子とセロリとトマトだったような気がする。
畝にビニールを張って保温した。
それなりに大きくなり、無事収穫できたのは覚えている。

それよりも同級生で面白いやつがいて、石を並べて丸く囲んだスペースを作り、その中で泥水をかき回していた。
なんだそりゃって聞いたら、田んぼを作りたいんだと。
それで苗はどうするんだというところで、自分が、そういえば田んぼの端のほうに余った苗が投げてあったなと思い出し、
先生の目をぬすんでフェンスを越え、近くの田んぼからそれを持ってきて、この田んぼにみんなで植えた。
稲作なんか全く何も知らない。彼の家は農家ではなかった。私も稲作については知らなかった。芋だったら作っていたが・・・

夏休みに出てきて、ポリタンクに水を入れて田んぼまで運ぶ。あの重たかったこと・・・

両手ですくえるぐらいの収穫は有った。教室で不要なプリントの折り紙で容器を作った。
家で精米して炊いて食べたと聞いたが、そこまで見届けていない。

■カレー
男子も家庭科室で料理をした。カレーを作ったと思う。

授業でカレー食って、その上、さらに給食も食ったと思うが、あまり細かい事は覚えていない。

育ち盛りの食べ盛りだったから、どっちも入っただろう。

ある同級生、昼休みに遊ぼうと思ったが姿が見えないのでどこ行ったかと思ったら、給食のあとに学校を抜け出して近所のチャンポン屋で食べてきたという。
技術家庭科の先生
2023.12.28
先日、県内のニュースで、横断歩道を渡っていた無職の高齢者が信号無視?の車にはねられて重体、数日後に亡くなられたとのこと。
その高齢者の名前、あれっ、どこかで見たことがある。比較的珍しい名前だから、同姓同名の可能性は低い。

中学生の頃にお世話になった技術家庭科の先生じゃないか。

1,2年生まではその先生だったと思う。

覚えているのは、
ブリキ細工で「ちりとり」を作る授業があった。
ブリキ板に寸法をとって「けがき」して、金切りバサミでブリキを切り出し、曲げる道具で曲げて、カドを合わせてハンダ付けする。

タガネのような道具で、曲げたい線に当てて金槌で叩いて曲げたと思う。

ブリキのハンダ付けには、フラックスではなく塩酸を使った。

カドの合わせるところのスキマに少し塗って、ハンダゴテ(太い)で良く暖めてからハンダを流すと、ジュッと音をたててハンダが吸い込まれる。そのままにしておくと腐食が進むので塩酸を良く洗い流す。

その先生から「君は、こういうの得意だろ」と声をかけられた事を今でも覚えている。

あと、「決して逆に読むなセンターポンチ」と、みんなに言っていた。

センターポンチってのは穴あけをする位置に打って凹みをつける道具で、これを打ってからドリルを使うとズレにくいので作業しやすくなる。

名前が「こうた」というので、子供の頃は「何をこうたんだ」(買うた)と、からかわれていたとか。それで名前を覚えていた次第。
先生の御冥福をお祈り致します。

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