出張の感染対策
2023.01.22
できるだけ人混みを避ける、というのは当たり前かもしれないが(インフルエンザ等に対しても)・・・都会では、それは無理。

駅の中は人がゴチャゴチャ、列車の中もゴチャゴチャ。

できるだけ余分な物に触れない、例えば・・・吊り革に触らないで壁によりかかるようにしたりとか。ドア付近がお気に入り。よりかかりやすいし、開閉のたびに空気の入れ替えが早い。

あとは、できるだけ呼吸しないようにするとか。(無理)

もし防護服を着ていたら、みんなに避けられて周囲に空間が出来て、ソーシャルディスタンスは確保されるだろう。

羽田空港から、たとえば千葉県内の某所への移動
何年も前に初めて行った時は、空港からモノレール、山手線、そして常磐線に乗り換えたが、とにかく人が多くてモミクチャにされて大変だった。
すし詰めの奥から「おりまーす!」と聞こえるのだけど、詰まっていて動けない。助けたいけれど自分も身動きがとれない。
そんな事があった。

聞くと直行バスがあるというので以後はそれを利用するようにした。このバスは経験的には満員というのは無く、今回も、まばらに何人か乗っている程度でゆっくりできた。

あとは・・・
外食を避けたぐらいか。部屋でカップ麺。カバンに入れて持ってきてよかった。お菓子も持ってきていた。ホテルの自販機で飲み物や豆菓子も買えた。
なんともいえず侘しいが仕方ない。

新コロは5類に・・・というニュースが聞こえてきたが、どうなるのやら。何かを決めるのもいちいち大変だ。
マスク不要といったって、つけておいたほうが良いだろうという人もいるだろうし。それに他の病気にかかった時、インフルエンザにかかったら着用した方がいいだろうし。
うどん屋と現金
2023.01.14
日常生活の中で、ほとんどの買い物をキャッシュレスで決済しています。小銭をザラザラ数えたり持ち歩く必要がなくなり、便利です。

病院もクレジット対応できるところがありますけど、基本は現金かなという認識です。これは、たまにしか行かないのでまあいいかなと。

飲食関係では、どうしても現金のみの店があります。うどん屋です。自分が通っている個人経営の店とチェーン店、いずれも現金のみです。

個人のほうは最近食券販売機が導入されました。それでも現金のみです。
チェーン店は、主に九州で展開している店のようですが、レジで尋ねたら現金のみだそうです。
経営上、現金のほうが都合が良い事が何かあるのかもしれません、不明です。

あの有名なちゃんぽん屋の全国チェーンも、クレジットは対応しないけれど何とかPayは使えるようになっていますので、それを経由して結果的にクレジット支払はできるようになっています。

ちゃんぽん屋にできてうどん屋にできないものかと、どういう理屈だよ(笑)

今日は千円札で支払って、お釣りで小銭が増えましたので、なんとか改善できないものかとチェーン店のサイトから意見を送りました。

キャッシュレスには店舗への設備投資も必要になるでしょうけど、次善策として、細かいおつりが出にくいようなきりのいい税込金額にできないかと思います。そのことも書きました。
荒物屋
2023.01.13
実家の近所に、昔からある店
(画像はGoogleから拝借)


たたずまいが当時から”全く変わっていない”事にオドロキ(笑)

こだわりで、あえてそのままにしているのかもしれない。いつ建てられたかは不明だが、半世紀は軽く超えている。
強いて言えば衛星アンテナが付いたぐらいで、他は全くそのままだろう。
それと、昔は「タイガー魔法瓶」の電飾看板がクルクル回っていたけど、壊れて取り外したのだろうと思う。

長年行ってないが、引き戸をガラガラ・・・と開けて入れば、昭和にタイムスリップするはず。

この店は、一言で言えば「とりあえず何でもある」
季節で必要になる物、よしずとか提灯とか鯉のぼりとか。農作業の鎌とか鍬とか。大工仕事のノコギリとか、建築金物とか。ざるとか蒸し器とか。灯油のポリタンクも。たばこも売っているし、宅配便の受付もしている。

近くに別館があって、そちらにも商品が置いてある。

ホームセンターは近隣の町にあるが、やはり「ご近所」の強みか、当時の姿そのままに商売が続いているのは素晴らしい(笑)

昔、ご主人が金髪?だったので幼い自分はアメリカ人だと勝手に思いこんでいた。
肉球認証
2023.01.11
冬になると指先がカサカサになって、もとい、肉球がカサカサになってスマホの認証が通りにくくなります。
何回か失敗すると、暗証番号を入れる画面になります。この代替手段があるから、まだマシかなと思います。
もし完全に肉球認証のみだったら、どうしようもなくなるじゃないかと。
専門学校
2023.01.05
工業高校を卒業したらどうするか、就職するかは決めかねていて、どうしたもんだろうなと、当時悩んだものでした。

周囲の同級生から、就職どこにするか決まった?なんて聞かれたりして、余計にあせりました。みんな進んでるんだ。自分なにも決めてない。あせるばかり。

大学も一応考えましたが、成績表が現実を教えてくれました。

工業高校の実習助手の道もあるよ?と先生から教えてもらったりもしました。それも悪くないなと一時考えました。

いずれにしても、すぐ就職することは考えられませんでした。

専門学校だと無試験(書類選考)か、有っても面接ぐらいで行けるので楽勝だなと。その2年か3年の間に就職を考えようと。

いろんな学校のパンフレットを取り寄せましたけど、あとで大変なことになりました。大変というのは、それぞれの学校からセールス電話がかかってきて、その対応に追われたわけです。

パンフレットだけでなく、学校紹介のビデオテープを送ってきたところもありました。

コンピューターや電子工学以外にも、なぜかパイロットの学校もあり、学校名は忘れたけど、とにかく無料だとか。国の関係機関なので無料でできるそうです。もう忘れましたけど、とにかく無料でパイロットになれるという夢のような学校でした。(現実は甘くないでしょうけどね)

間違ってそこに行っていたら、また違った人生を歩んでいたかもしれません。やっぱり落ちこぼれていたかも。

京都コンピュータ学院などのパンフレットも見ましたけど、よそで暮らす勇気がなかった。知らない土地にひとりで行くなんて。

最終的に、県内の専門学校に入学を決めたわけです。

その半年ぐらい前、無線部の活動で長崎市内での試合を撮影に行った事があり、当時は陸上競技場があって、そこに立った時に何となく、この土地で暮らす日が来るような気がすると思ったのでした。まさかそれが現実になろうとは。

10名前後の下宿屋に入り、最初は2人しかいなくて徐々に仲間が入って増えてきました。

たまたま自分の部屋を開けっぱなしにしていたら、廊下を通りがかったヤツが私の部屋のパソコン(MZ-2000)を見て、パソコンに興味あるの?俺も!ってな具合で、彼とは長いつきあいが始まりました。

自分は3年コースの学科に入ったけれど、なんと、5人しかおらず、まずは他科と一緒に授業を受ける事になりました。3年目だけが特別コースになるらしい。
2年目に希望を聞かれて、最初の5人の同期はいなくなったし、システム工学科として2年で卒業する道を選びました。

当時は汎用機のプログラマを養成する時代でした。メインフレームってやつです。

COBOLのバッチ処理とか。全然COOLじゃないCOBOLのプログラミングを、超遅いACOS-250で実習していました。

そのほか、アセンブラとしてはCASL(当時の情報処理技術者試験に出ていた)を習ったり、あとはC言語の講座もありました。

ただ、全般的にたるんだ学校だったと思います。先生たちもやる気がなかったんでしょうね。放棄して寝る先生とか、みんなとおしゃべりに夢中になる先生もいました。なんてひどい所に来たのだと。

1年で辞めてしまう人たちもいました。

こんな状況では、あとは自分の頑張りだけですよ。自分も含めて、気合の入った5人がグループとなり、いろんな事に挑戦していきました。

ソフトの学校なのに自分だけハードウェアを卒業研究のテーマに選んだりして・・・それで作ったのがZ80のLED電光板付きのポータブルマイコン(現存)。

2年間は当時は長く感じた。いまの2年間とは感覚が違う。もう戻れないけど。

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