道具シリーズ(5) リワーク
2022.05.20
リワークというのは、たとえば不良部品を取り外して良品を付け直すとか、ハンダがイモだったり天ぷらだったりするのを修正するとか、そういった作業をさします。

ここでは、リワークというよりも「部品はずし」の方法をメインで書くかと思います。

電子部品が欲しくても、田舎ですから売っている店はありませんでした。それで、捨てられているテレビやラジオからはずしていました。ただでいくらでも手に入ります。(でもテレビやラジオに使用されている部品に限られます)

まず、外だと道具を持っていない場合はほとんど。それでどうしたかというと、一旦、家に帰ってニッパーなんかを持ってくるのも面倒だし、その間にゴミ収集が持っていくかもしれないと心配だから、その場でハイエナするしかありません。

幸い、当時はリードが長めに付いている事が多かったです。トランジスタなんか基板の上に出ているリードが長かったのです。指でつまんでグラグラ揺すれば、そのうち金属疲労でリードが折れて、無事にトランジスタをGET!できたというわけです。

ただ、その力加減には技が必要で、力のかけかたによってはトランジスタの本体側の付け根できれてしまうので、それは失敗です。
トランジスタとリードの大部分までつまみ、基板側に力が集中するように力をかけてグラグラ揺すります。
これを欲望の赴くままに繰り返し、ポケットを一杯にしていきました。

真空管だったらソケットから抜くだけで楽勝だったな・・・と思いながら、でも当時の自分にとっては貴重なトランジスタは宝物でした。

そのうちに、ランドセルの中にドライバーとニッパーを入れて学校帰りにゴミを見つけてもその場で対応できるようにしました。実際、夏休みの廃品回収で学校近くの空き地に粗大ごみが集められた時にも、道具を持っていたのでラッキーでした。

ちなみに当時はいい加減で、木目調テレビに火を付けて小学校の近くで燃やしたりとか、平気でそんな事をする大人がいました。黒煙モクモクで、いまだったら大変な騒ぎになるでしょう。
そして、業者が全部持っていかなくて、いくつか残していった物がありました。テレビや洗濯機も、その空き地の端の斜面になっているところに投げ込まれていました。これもまた、現在ではとんでもない事でしょう。

それは当時の私にとっては、宝の山でした。危ないけど、その斜面におりていって、持参の道具で部品をはずしました。なんと幸せな時間だったのでしょう。宝箱をあけたら金銀財宝がザクザクというのがアニメなんかで見たことがあるかもしれませんが、私は、まさにその気持だったのです。

気づいたら担任が斜面の上から見下ろしていました。おい、お前ら(私の仲間がいました)なにやってんだ危ないぞと。
怒られてげんこつも喰らいましたが、その先生は教員になる前は無線の仕事をしようとしていた方で、ある程度こういうジャンクいじりには理解があったのでしょう。

仲間のA君はスピーカーを取り外したいというではありませんか。ところがナットどめされていて、プラスドライバーではゆるめられません。そこでニッパーの出番です。刃こぼれするのでやってはいけませんが、当時はそんな事は知らないし構っていられません。ハイテンションでした。ニッパーでナットをつかんで回し、ある程度ゆるんだら、あとは指でゆるめられます。
私がニッパーでナットを全部ゆるめてあげて、あとはA君が自分の指でゆるめて、見事お宝をゲットしました。

なんだか脱線してなかなか本題へ移れませんが・・・

捨てられていたテレビの基板だけ持ち帰ってくるようになりました。やはり抵抗などはリードが短く、ニッパーで基板から切り取ると短すぎて使いにくかったのです。
それで、ハンダゴテで裏からハンダを融かして抜き取るようにしました。これを自宅の居間でやっていて、くさいからやめろとか親に怒られながら、融かしたハンダをこぼして畳を焦がしたりサンザンでした。バスマットを買ってもらって、その上で作業するようになりました。これもハンダで穴があくので、ボロボロになったら、また新しいのを買ってもらいました。

こうして集めた部品を箱に溜め込んで、ニヤニヤしていたのです。この調子で高校生、いや、社会人になるまでやっていました。上司に抵抗なんか買えよと言われて、そう言われるまではジャンク基板から欲しい抵抗値を目を皿のようにして探し回るという効率の悪いことをしながらワンボードマイコンなんかも作ったのです。

ハンダ吸い取り線なんか最初は知りませんでした。有っても、貴重なものでした。隣町まで行く必要があり、めったに買えません。

それで、2つの方法でハンダを除去していました。コテで融かしながら基板をパンと叩きつけるとハンダが落ちるのです。これでハンダが散らかったりしていたわけです。

もうひとつは、つまようじや竹串を使っていました。片面基板だと、ハンダをとかして穴につまようじを差し込めば、きれいに穴があきました。

あと、基板を上向きに持って、下からはんだごてを当ててハンダを融かし、ずらしながらハンダを集めていく、なんてこともしていました。ちょっと説明が難しい。

中学~高校ぐらいからIC回路もいじるようになり、Z80もはんだごて1本で基板から取り外したものです。マイナスドライバーでこじるような力をかけながら、ハンダを多めにつけておいたのをはんだごてで何度もこするようにして融かしているうちにICが浮いてきます。片方の列が浮かせれば、あとは楽勝でした。

合理的に考えれば、こうした方法は何ともいえませんが、なんというか、何らかの財産として自分の中にのこっているような気がします。

専門学校の学生になり、長崎市に住みはじめ、あこがれのパーツ屋さんに通えるようになりました。デンキのカホ長崎店です。
そこでジャンク基板、たぶんオフコンの基板だったと思いますが、4層基板にDIPのICがギッシリ載っていてお買い得?でした。

ここからICをはずして集めようとしたわけです。面白いこて先があり、まさにDIPのICをはずす為の形状をしていました。これをはんだごての通常のこて先のかわりに差し込んで使います。
あとはハンダを多めに流して、ICのハンダ面から当ててやれば全部のピンのハンダが同時に融けて、引き抜けるだろうという目論見でした。

ところが実際には思ったようにいかず、かなり苦労しました。ICに引き抜く力をかける為の道具も工夫して、薬箱の安いピンセットを短く切って先端を折り曲げて自作しました。

長くなったので、一旦ここまでにします。次は、SOPやQFPの取り外しについて書きたいと思います。
道具シリーズ(4) プロへの道
2022.05.20
平成初期の頃、コンピュータ学校を卒業して、ある産業機器メーカーに入社しました。

最初は工場のお手伝いをさせて頂いて、おばち・・・失礼・・・「年上の(きれいな)お姉さんたち」と一緒に、コンベアに並んで部品実装をしていました。

一番最初の仕事は、マスキング作業だったと記憶しています。マスキングって何か、それを説明します。
工場でのプリント基板のハンダ付けは、ディップ槽といって溶融したハンダのタンクに基板を降ろして一括でハンダ付けしてしまいます。引き上げた後に長いリードを切断します。それからフラックスを洗浄槽で洗い流します。

ただ、バックアップのリチウム電池とかハンダ付け端子が付いていても、ディップに入れるとハンダでショートしてしまうし、熱に弱い部品もあります。それらは「後付」という工程で、ハンダゴテによって手作業で付ける必要がありました。

圧電ブザーのリード線をハンダ付けする所に、マスキングテープを貼る作業をひたすら100枚ぐらいやったでしょうか。
当時使っていたテープは「TESA」というブランドの紙テープで、ディップに入れると焦げてしまいますけど、ある程度の時間なら耐えていたような記憶です。
今だったらカプトンテープでしょうか。あれは高かったので選択肢には無かったのでしょうね。知らなかったのかもしれません。わかりません。

テープの貼り方も教わって、金属製のスケールがあるでしょう。15cmぐらいのやつ。それでテープの端を押さえながらテープをピッと切るのです。いちいちハサミを使わずに済みます。

とにかくテープを貼った後に、ローラーでよく押さえて密着させます。そうしないと、たとえばカードエッジの金端子なんかハンダがつくと台無しです。ハンダが入り込まないようにしなければなりません。

手作業のハンダ付けで当時使っていたのは、社内ではANTEXというブランドの物でした。イギリスのメーカーだと思います。
軽くて使いやすかったです。18Wぐらいなのに、これで不便をあまり感じた事はありません。

設計部門へ配属され、先輩方の試作の手伝いなどをしました。その中でPLCCをハンダ付けする事になり、そんな物は学生時代に見たことも触ったこともなく初めてで、とにかく製造の班長にやり方を教わろうと、聞きにいったのです。

SOPだったら高校生の頃にポケコンのSRAMを増設した経験はありました。前に書いたように、あの白光のJUNIORの太いコテ先で。

それでまあ、PLCCのハンダ付けを一通り教わり、うーん、当時は若くて元気で生意気だったのでしょうね、私は、「こんなの楽勝でできますよ」みたいな、”余計な事”を言って、「お前はナマイキだ」と怒られたような記憶があります。

そして、よく、あの太いこて先で・・・まあ、慣れれば1種類でQFPでも何でも付けていました。これしか無いから何とかするしかないでしょう。斜めにしたり、先っちょだけで付けたり、工夫しだいで何とかなるものです。

こんな事を繰り返していくうちに、ハンダ付けがうまくなりました。0.5mmピッチのQFPは当時普及しはじめでしたが、それも肉眼で付けられるとかいって、やっぱりナマイキな若造でした。

数年後に社内の規定が変わり、今までのANTEXは使ってはいけない事になりました。品質管理のために温度を管理する必要がでてきました。それでANTEXは捨てろと。いままで慣れていた製造の方々は困惑したでしょう。
コテ先の温度計が配布されて、毎朝それで測定しろとか、そんな話です。
いままではこて先についた汚れやハンダを拭うのに、自己流でダンボールにこすりつけていた製造の方も、やり方を改めなければならなくなりました。これは、良いアイデアだと思うのですけどね。水濡れスポンジと違って、こて先の温度が下がりにくいから。
いまは金属たわしみたいな物にこすりつけてますけど、たしか当時は無かった。

いつ頃だったか、製造部門がめちゃくちゃ忙しくなり、他部門の社員も手があいていれば手伝いに行くようになりました。
私は設計部でハンダ付けばっかりやっていて、ナマイキだけど上手くなっていて製造の方からも認められ、残業時間帯に呼ばれて手伝いに行っていた事もありました。
道具シリーズ(3) ハンダ
2022.05.20
初めて使ったハンダは、白光JUNIORと一緒に売られていたと思われる「ヘクスゾール」です。カバヤ等のラムネ菓子の筒、ちょっと違うな、透明の筒の中にハンダがスプリング状に巻いてあったものです。
ハンダを引っ張り出して使う物で、作業的には使いやすかったような気がします。ただ、これも他と同様で選択の余地がなかった為、そういうものだと思っていました。

やはり、なんといっても、あの「香り」は忘れられません。はんだごてで融かした時の、あの「香り」です。

「におい」ではありません。「香り」です。この点を間違わないようにしなければなりません。

あの懐かしい香り、また、嗅いでみたいものです。
道具シリーズ(2) 最初のはんだごて
2022.05.20
田舎で手に入るものは、ある程度限られていて、選択の自由はありませんでした。ただ、ほかの選択肢についての情報も知らないから、特に不満もなかったと思います。こういうものだと、ただそれだけでした。

最初のはんだごては、今でも売られているハッコー(白光)のJUNIORシリーズ、60Wのものでした。
こて先はメッキではなく銅がむきだし。これは本来、自分でヤスリがけをしてこて先の形を作るものなのです。
ただ、当時はメッキのこて先なんて世の中に存在するのかどうかも知るよしはありませんでした。
銅がむきだしなので、ピカピカ光っているのは新品のときだけです。一度でも通電して熱くなると酸化して真っ黒になります。
そこで、こて先にやすりをかけ、ピカピカした銅を露出させます。すかさずハンダを流してやります。これでハンダ付けの準備ができました。
これでしばらくは使えますが、また真っ黒になってハンダの「乗り」が悪くなります。そしたら、またヤスリがけとハンダを流す必要があります。
いちいち面倒といえば面倒ですが、当時は、こういうものだとしか思いませんでした。

単に黒くなるだけではなく、銅が「食われて」穴があいたり、欠けたりします。それできれいに尖るようにするためにヤスリで成形する必要がありました。

最初はコテ台もなく、クッキーか、せんべいの四角い空き缶の中にはんだごてを置いて使っていたような記憶があります。
いつ頃だったか、グラインダーの砥石の割れたやつをひろってきて、これはヤスリとして使うにはちょうど良いなあ、と。その缶の中に置いて使っていました。おもりになって、こて台としても安定していたし、砥石の上にはんだごてを置いても平気でしたね。

また、そのうちにヒーターが切れて、新しいはんだごてに買い替え、といっても同じ機種しか地元のホームセンターでは選択肢がありませんでしたが・・・同じ機種を代々使っていました。

いつ知ったのだろうか、メッキのこて先は・・・たぶん「ラジオの製作」、「初歩のラジオ」あたりの記事で、そんな物があるんだと、情報源は当時それぐらいしかありませんでしたから。

メッキを知ったのは後の事で、その前のステップとして、電子工作には60Wでは大きすぎる事を知ったのではないかと思います。それで20Wぐらいの物を買おうとしたのではなかったか。

それで買ってきたのは、こて先がメッキになっていた物だったのです。ただ、その時はメッキという認識がなく、今まで通りにヤスリをかけて使っていました。ここで大失敗していたのですね。最初は、失敗とは思いませんでした。

あとから、どうも間違ってるみたいだと・・・それもまた、電子工作の雑誌で知ったのではなかっただろうかと。メッキのこて先にヤスリをかけたらダメだよと。

うわー、とんでもない失敗をしていたのか。何度もヤスリをかけるうちに、コテ先はどんどん短くなっていく。
今度買い替える時は、やすりをかけないように注意しよう。そう誓いました。

たしか高校2年でワンボードマイコンを作った時ぐらいまでは、30Wか40Wの白光JUNIORを使っていたような気がします。よく、あんな太いコテ先でマイコンの細かい配線をつないでいたものでした。

これはワイヤーストリッパーの回があれば書きますが、通っていた工業高校に便利な道具がありました。ワイヤーストリッパーです。電線を挟んでレバーをカチャと操作するだけで簡単にむける!!
かつて、ナイフで危なかっしい皮むきをしていた自分にとっては、まさに天にも昇る気持ちでした。なんてラクチンなんだ!!!!!!!!!!
ただ、自分の物ではないので、借りて帰って試した翌日には、返却するしかありませんでした。高くて買えないなあ、でも良いなあ、あこがれました。

当時はニッパーで皮むきをするのが当たり前だと思っていました。それも最初は刃こぼれして切れないニッパーで、力技でマイコンの細かいリード線をむいていたのです。それしかないから、仕方ありません。

そのマイコンを作っている最中だったか、その後だったか、ようやく自分のお金で新しいニッパーを買ったのです。島原のホームセンターまで出かけて・・・たしか二千円近くしたのではないかと思いますが、その新品のニッパーの切れ味にも驚きました。あのワイヤーストリッパーには及ばないけれど、これはこれで効率UPにつながりました。
道具シリーズ(1) 何もなかった頃
2022.05.20
続くか分かりませんが、道具シリーズと称して、電子工作の道具について書いていきたいと思います。

何もなかった頃

何もなかったといっても、全く何もなかったのではなく、最低限の道具しかなかった頃と書いた方がよかったかもしれません。

物心ついた頃には、身近な家電品などを分解していました。

木目調テレビの裏側に回り、通気穴から中をのぞきこんで、中身はどうなってるんだろうと、そんな事ばかり考えていました。
細いスリットからのぞくと見づらいし、内部は暗いから、無理やりに通気穴を広げてみたり、中に物を落としてショートさせた事もありました。そうすれば電気屋さんが来て裏蓋をあけるから、堂々と内部を観察する事ができたのです。

小学校に入るか入らないかの頃、持っていた道具は身近にあったハサミとか、マイナスドライバーが2種類ぐらいではなかったかと思います。
マイナスドライバーは、ミシンの付属品だった物でしょう。オレンジ色の持ち手が付いていました。もうひとつは細くて、出どころはわかりませんが、レコード針用にしては長かったような気がするのでレコード針用ではなかったと思います。

昭和40~50年代で、マイナスネジが多かったような気がします。プラスでもマイナスをつっこんで無理やり回していました。カドをひっかければ回せますからね。

電工ペンチと電工ナイフも有ったような気がします。電線のむき方を正式に知らないから、ナイフで危なっかしく剥いていたら、それを見ていた親戚のおじさんが(あまりにも危なっかしかったのでしょう)大きな声を上げて「あぶないよ!」って言うもんだから、こっちがびっくりして泣いてしまったことは覚えています。

それからナイフでの皮むきは止めて、ハサミで適当に挟んで皮むきをしていました。あと、歯で挟んで線をひっぱってむきました。
エナメル線は使い放題あって、それは親戚の人だったか、スピーカーについていたトランス部分を壊してそこから線をとっていたのです。ひっぱると巻線がまるごと回るので、好きなだけ引っ張り出せました。

エナメル線の塗装をむくのは、平らな所に置いて刃物でこすれば良いのだけど、良くやっていたのは歯の間に挟んで線をひっぱる事でした。むけた塗装は口の中に残るので、ペッと吐き出していました。なんと野蛮だったのでしょう。有毒物を体内に取り込んだかもしれません。

いつだったか親父が出張の前に「プラモデルをおみやげに買ってきてやろう」というので楽しみにしていたら、まあ、当時プラモデルがどういうものかもよく知らなかったのですが、実際のおみやげは「デルタックス」というもので、これは、あの有名な「メカノ」「エレクター」の類似品だったのではないかと思います。
なんと、いま調べたらデルタックスのオフィシャルサイトがあります。

デルタックスはどういう物かは、詳しくはオフィシャルサイト等で調べてみて下さい。ビス、ナットと金属プレート等の組み合わせで、自由にいろんな物が組み立てられるというおもちゃです。
この付属品として、小さなプラスドライバーと小さなスパナ(たぶんM3かM4用?)が手に入りました。

はんだごては家にあったけれど、子供だけで勝手に使ってはいけないという事で、親父がいる時だけ使えました。たしか60Wぐらいの物。

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