目が覚めた夢
2024.02.22
もう忘れていいのに、学生時代に戻った夢

高校時代、落ちこぼれで苦労した。
じつは落第ギリギリだったし、超低空飛行でよく卒業できたもんだ。

たまに見るのは、その高校の玄関前で足が進まなくなる夢。
一生懸命歩こうとしているのだが、なぜか足が重くなりジワジワとしか進まない。
もたもたしているうちにキンコンカンコン鳴って遅刻。

実際は遅刻なんかしなかった。
入学初日だけは道に慣れてなくてギリギリになったのは覚えている。だが初日だけは学校側も大目に見ていた。

駅から市役所付近、島原城、商業高校、武家屋敷、住宅街を通って学校までのぼっていく通学コース。ざっと30分ぐらいかかったか。
数年前に思い出して歩いてみたこともある。

駅の外のトイレは現在のようにキレイではなく、だいたい農業高校のワルがたむろしていて、タバコを吸ったり、オイコラお前と因縁つけられたものである。

近年、高校はすべて建てかわってあの校舎も玄関も昔の姿ではない。もう忘れていいのに。

今朝は早朝に目覚めたが、学校の勉強についていけなくて嫌になり、やめようと思ったところで目が覚めた。いやな目覚めだ。

夢の中では、全教科1冊のノートにでたらめに書き込んでいてしかも空きページがない。授業中、やばい書き込むところがない、帰りにノート買いにいかなきゃな、と考えていた。

現実これは中学の頃に1冊で全部兼用するという愚行をやっていて、なぜそうしたのかわからないが、1教科1冊ではもったいないと思ったのか。何冊もあるとカバンが重くなったか。

ある時、ある先生が私のノートをいきなりみんなの前でさらして、こういうノートの使い方はいけない、といった。これを優等生のノートと比べるという事をみんなの前でやったのである。確かにノートの使い方はいけなかっただろうが、比べるなんて、あんまりひどいだろう。

これは現実の話だが、
数学の授業なんかでもサッパリわからなかった。
それじゃ問題を解いてみろ、ということでみんな取り組み始める。
自分、さっぱりわからない。全然進まない。
時間は流れて、授業終わり。
こうして、なんとなく時が過ぎていき、あとから取り戻せなくなる。
数学というものはどこかでつまずくと落ちこぼれるのである。

周囲のみんなから、数学なんて単純だろ簡単だろ、って言われる。
それを聞いてイライラしていた。

先生が黒板で説明をしていて、さあ、あとは機械的にスラスラと、ほらできた、簡単だね、なんてやっていたのを今でも覚えている。
なんかこういうのでムカムカしていた。だから全然わからんってば。

肝心の数学の内容はサッパリ覚えてない。イライラ、ムカムカした事だけいつまでも覚えている。

夢の話に戻るけど、

日直をやっていて休み時間に黒板を消していた。自分の席に戻ろうとするが自分の席がどこだかわからなくなった。夢の中というのは、わけがわからんな。

こんな板書を書き写すだけじゃ頭に入るわけないだろとかゴチャゴチャ考えていた。

今度は体育で野球をやるという話になり、じつは野球観戦だけとか、もう夢の中というのはめちゃくちゃである。

(いずれにしても運動は全然ダメなのび太君だったから、野球も水泳も嫌だー)

勉強もちっともわからん。こりゃもう破綻だとか思い詰めた。(夢の中)

たぶんこれは、Youtubeで「ただよび」をずっと耳で聞いていたせいだろうな。物理の先生がきれいで萌えるのだが、勉強の内容は正直言ってサッパリわからん。
こりゃ全然わからんと思って途中で止めたんだっけ。
この記憶があとから夢に反映されたのかもしれない。

現実の話なんだが、そろそろ高校入試。

試験問題が公表されていたので、以前ちょっと読んでみたけど、いま見てもサッパリわからん。よく、あの当時これが解けたものだと。
昔とそんなに変わらないはずだけど。
結局、受験でしか使わない知識だったのか。

中3の夏ぐらいだったか、このままじゃ高校入試も危ういというので、地元の塾を紹介されて通わされる事になった。
病気で地元に戻ってきた先生が個人で農業と兼業でやっていて、いまも変わらないが昔の納屋の2Fを改造して教室にしていた。
教室と言っても座布団を敷いて床に座る。

だが、この先生は教え方が抜群にうまかった。

英語の発音ひとつとっても、この先生から教わるとよくわかった。アクセントが一発でわかった。学校の先生は発音が悪かった。
学校の先生の発音「べり~ぐっど」
塾の先生の発音「very good」

中学卒業まで大変お世話になった。そこで縁が切れるはずだった。

ところが高校で落ちこぼれ、赤点で追試になり・・・
またお世話になって、教わるとスイスイわかった。なんということでしょう。
ちょっと最初のほうだけ教わると、あと全部わかるみたいな勢いでわかった。

ゴチャゴチャ長く書いたが、夢だか現実だかわからない文章になってしまった。
回覧とメール
2024.02.12
社会に出たのは30年以上前、無我夢中で走ってきたらいつの間にかという感じである。

最初に勤めた怪社では、職場で色々な回覧が回ってきていた。

当時は電子メールどころか、個人ごとのPCは無かった。
部品表や図面などはほとんど手書きで、PCは数台しか無く、CADはもっと少なく、それらをみんなで共有していた。共有というか早い者勝ちで、自分のような下っ端の若造はおこぼれで使える程度だったのである。
CADを長時間占有していると、早くどけとか圧力をかけられる。

余談だが、
そんな状態だったので、仕事上の必要か、業務効率化のために個人でPCを買って怪社に持ち込んでいた人がいた。
ある日、総務部の人たちが回ってきて、会社の備品を総点検しているという。確認の済んだ物にはラベルが貼られていった。
とにかく手当たり次第に見てはラベルを貼り付けていったが、その中で、個人PCまで会社の備品としてラベルが貼られてしまっていた。本人、総務部に電話して事情を説明していたが、そもそも買った記録も何も確認せずに、現状に対して単純作業をしていたのは問題だろう。なんていい加減な、と言われても仕方がない。

そのうちに、係長以上にはノートPCが支給された。下っ端の若造の自分には回ってくるはずもなく、自分でジャンクのラップトップを買って持ち込んだりした。
その係長以上のPCも、係長や課長は白黒液晶の98ノート、部長だけカラー液晶の98ノートというヒエラルキーだった。
いまではカラー液晶なんか当たり前なんだが、当時は白黒液晶の方が多かったし、カラーは高価な機種だった。白黒というか青白みたいな液晶もあった。

回覧の話に戻るが、
全員に周知すべき連絡事項とか、新製品のカタログなどが回覧されてきていた。
添付された紙切れには全員の名前とチェック欄があり、閲覧が済んだらマークを入れて、まだ見ていない人へ回す。

病気で休んだり、出張で留守にした後は大変で、自分の机上は回覧が山積みになっていた。これらの処理がまた面倒くさかった。
それに、こんなふうに誰かのところで停まっていると情報伝達の遅れで不都合も生じないかと思う。出勤している人の中で全部回してしまったほうがよくなかったか。
まあ、みんな面倒だから適当に回したんだろうけど、効率も何も考えていなかった。

そして、一番最後の人がその回覧物をどうするかというのも課題だった。ゴミ箱へ入れるのか、所定のファイルに綴じるのか。最後の人に押し付けられてしまう。

いまの時代ならメールに資料を添付して関係者にCCまたはBCCで送れば一瞬で済むしゴミも出ない。保存もフォルダに入れておけば済む。

振り返ってみると、なんとも無駄な事をしていたのだが、当時はそれが当たり前だったから仕方がない。
チューブを使い切る
2024.02.11
小学生の頃、ある時に目覚めたのだが、

それまでは絵の具や歯磨きのチューブを適当に使っていた。
押さえてやれば中身が出てくる。ただそれだけだと思っていた。

残り少なくなると、どうにかして買わずに済ませたくなる。

そこで、鉛筆で押さえながらチューブをしごいて、あるいは鉛筆を転がすようにして中身を先端に向かって寄せ集めた。

そうするとチューブの中身のない部分はキレイに真っ平らになる。その姿がじつに美しく見えた。全く無駄がない。

ここで目覚めて、とりあえず絵の具の全部のチューブをそのようにしてペッタンコにした。

当時は金属製のチューブだった。(材質は知らないけど鉛?アルミ?)

とにかく、常にペッタンコになるように保守した。

次に歯磨きチューブをしごいてみたが、柔らかい樹脂のチューブなので元に戻ってしまいがちだった。いまいち「美しくない」

それから接着剤のセメダインCとかボンドG-17のチューブをしごいて美しくした。

ところが・・・そうやって強引に中身を押し込んだせいか、圧力が高まった状態になった。チューブのキャップをとると、中身がニョロニョロ出てくる。

わあ、こぼれるこぼれる・・・タラリーと垂れて、始末に負えなくなる。中身が出てくることなんてこれっぽっちも考えてなかった、あの頃。
かんぱんとかにぱん
2024.02.10
非常食の備蓄だけでなくその管理も重要です。
消費期限を確認し、期限切れになる前に新しい物と入れ替え、古いものは消費していきます。
意外と年月の経過というものは速く、もう期限切れか、という感じです。

まあ、味見をしたくなっただけなんですが、カンパンの缶をひとつ開けてみました。期限は2026年までです。


開けてみると意外と量が少なめに見えました。


今度買う時は、「かにぱんおねえさん」の会社の物を買おうかと思います。

かにぱんおねえさんと言うけれど、じつは、おば・・(ザーーーーッ)
陶芸家の生活
2024.01.24
それまで、茶碗なんか100均で買えば良いとしか思ってなかった自分
落として割ったりしない限り、そうめったに買うことも無いから、売れないだろうと思い込んでいた。

それを作っている陶芸家(実際は複数の方々)との出会いは自分の人生に大きな影響を与えた。その生き方などは勉強になった。

向こうに言わせれば、よくサラリーマンなんかやってられるなという。大学を出て以来、会社勤めは一度もなく、自分でやってきたという。それで家庭を持って、家も建てたという。

こっちにしてみれば、サラリーマンじゃないと収入が不安定でどうしようもないだろうと思い込んでいた。(当時は)

遊びに行くと、良く居間のソファでゴロゴロしていた。いつ遊びに行っても同じで、本当にどうやって仕事をしているんだろうと思った。

不思議なことに、個展のパンフレット等を見ると、いかにも「先生」の顔をしている。いつも見る姿と違う。別人のようだ。
おそらく、スイッチのON/OFFで切り替わるんだろうと思う。自分がたまたま遊びに行った時はOFFなんだろうと思う。

ある時、仕事場でろくろを回しているところに遭遇した。やっぱり顔が違う。いまはONだ。

あまり邪魔しちゃいけないので、話を少しした程度で引き上げたと思うが、「記念品で配る皿を100枚作ってという注文が来ている。だけど自分的には、やりたい仕事ではない」と言っていた。

つまり、いま作っているものは芸術家として真に取り組みたい作品ではない。生活のために(仕方なく)やってるんだと。

そして・・・

いったん窯に火が入って作品を焼き始めたら、とにかく離れられない。焼き上がるまで2~3日近くにいなければならない。
ガスとか電気窯なので比較的ラクのようだが、薪で焼く場合はずっとはりついて火加減しなければならない。

いつものように居間のソファに寝そべってテレビを見ていたが、時々起き上がって温度計を見に行き、グラフ用紙に記入していた。こんなふうにして焼き上がりを待っていた。

またある時、遊びに行ったら、室内の天井からブランコがぶら下がっていた。

どうしたんですか、と聞いたら、海岸で流木を拾ってきてチェンソーでブッタ切って作ったんだという。

たぶん「芸術は爆発ダァ!!」とか叫びながらチェンソーを振り回したんだろうと勝手に脳内想像した。

何か思いつくと夢中になってしまうのだろう。

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