秋月電子の昔話(続続)
2024.04.14
■流行った物(カラー液晶)

'90年代後半は、特にカラー液晶が流行ったと思う。
パチンコ台からの放出品で、これを利用して小型テレビを作っていた。
このためのチューナーユニットや、チューニング用のキットまであった。
ビデオ信号とRGB信号の変換キットも。

ちょうど良いフロッピーディスクのケースがあって、ブラウン管モニターの形をしていた。これで実際にテレビを作って、利用していた。

そういえば小型ブラウン管もあって、これも買った覚えがある。やはりパチンコ台に入っていた中古品で、表示が焼き付いていた。

焼き付きというのは、よくゲームセンターの機械で目にする事があったと思うけど、GAME OVERの文字が微妙に残っている。電源を落としても痕跡が見えるというもの。長時間同じ表示をしていると焼き付いてしまう。だからPCのスクリーンセーバーがあるわけだ。

もうちょっと専門的に言うとイオン焼け、といったっけ。テレビの教科書にあった。
ブラウン管テレビの電源を切った時に、画面の中央に点が残るのを覚えているだろうか?これが焼き付いたりする。
そのほか、故障や調整時に横一本の線や点を表示したままにしていると焼き付くので、輝度を下げて対応していた。

■昔のキット(全般)

今でこそきれいなプリント基板(ガラスエポキシ、両面)になっているが、昔は紙フェノールのユニバーサル基板みたいなプリント基板(片面)だった。

穴あけをユニバーサル基板用の金型で行うことでコストダウンをはかったのかな?と勝手に想像している。
本来、必要ないところまで全て穴があいている。





そんな基板でも有るだけマシで、ユニバーサル基板が付属していたものはやる気が半減していた。まあでも当時は手組みが好きだったので結構楽しんでいたかも。

その後、ガラスエポキシの基板に変わった後でも、その頃のパターンをそのまま利用したプリント基板を見かけた。鉛バッテリーの充電基板とかそうじゃないかな。但し、必要なところしか穴あけされてない。ユニバーサルのように全面的に穴あけしてないという意味。

そして、あとからの追加や改造が結構あったので、キットの説明書を隅々まで熟読して、これらの追加や改造をひとつひとつ間違いなく実施する必要があった。このあたりで、根性の無いやつはふるい落とされる。

キットの説明書は基本的にワープロで打ってあったが、かなり手書きで追記してあったり、図面は切り貼りされたりしていた。これが、かえって味わいがあって良かった。

■怪しいキット

いまの時代だとコンプラとかうるさく言うやつがいそうだ。でも自作するのは自由だと思う。

そもそもVHSビデオ自体がなくなってしまったな。おすぎキャンセラーでピーコさんとか。意味不明。
キットがなくなってから、回路図を見ながら1台作ってみたけど、もう使わないから部品取りして捨ててしまった。

電話の通話をFMラジオに飛ばす。これって通話録音用という建前だけど、頭頂器?だろうと。面白いので超小型に作り直して遊んだりした。二股モジュラーコネクタに入るようにしたっけ。だけど電話のベル信号でぶっ壊れた(笑)

MDのピーコさんもあったような。光のコネクタの。MDもなくなってしまったな。

■意外と無い

電子工作の基本となるキットは何かっていうところで人により色々あるだろうけど、やはりラジオかなと思う。ゲルマとか1石あたりから始める。

意外と秋月ではラジオキットを扱っていなかったか、極めて少数だった。記憶にあるのは、確か台湾製のキットかな。台湾に行った時に見かけたパッケージだった。

■PICマイコン

1995年頃だっただろうか。トラ技にPICマイコンの記事が初めて載って、これがきっかけで取り組み始めた人も多いと思う。
それまでワンチップマイコンというものは馴染がなかった。人によって違うのはわかるけれど。
EEPROM、のちにフラッシュになって書換容易というのがよかった。でも当時は窓付きPICも有って、実際に使っていた。まだ持ってるぞ。PIC12C508の窓付き(値段が高かった)

アセンブラは無料だったし、書込ツールも自作しようと思えばできた。パラレルポートを使う有名な回路。

秋月キットのPIC書込機(AKIPIC)を最初使っていた。

■SXマイコン

黒歴史かも? SCENIX社のSXマイコンというものもあった。PICより高速じゃなかったっけ。
書込機のキットがあったので作ったけど、ある日、何か作っている時にトランジスタが部品箱になかったのでこの基板から取り外してそれっきりだ。

■おもしろ雑貨

これは忘れられない。面白そうなのでつい買ってしまう。

超音波洗浄機があった。メガネとか洗うやつ。
当時のテレビだったか、お酒に超音波をかけるとおいしくなるとか聞きかじったので試してみたくなった。ちょうどいいじゃないか、超音波の機械がある。
ところが私はお酒が飲めない。
会社に超音波洗浄機を持っていって遊んでいた時に、上司が缶コーラを飲んでいたので、その缶をなんとなく入れて超音波をかけてみた。すると・・・

ブシャーーーーーァァァァ!!!! 周辺がコーラまみれに。

水道の蛇口に取り付ける自動水栓もあった。手を近づけると開閉する。そんなの必要あるのかどうか微妙だったが、色々試してみたいお年頃だった。
これは知人宅に取り付けてほしいと言われて現場へ行ったのだが、水道の元栓がどこにあるかわからないという。
それで仕方ないから、おそるおそる蛇口のナットをゆるめて、あふれる水を押さえながら取り付けたのだった。

Wi-Fiの電波を検知してレベル表示するキーホルダーみたいなものとか、

ドアに仕掛けておいて、ピッキングを検知してアラームを鳴らすやつ。
これは、どんな音がするんだろうと思って爪でカリカリひっかいていたら、突如、大音響が鳴り響いてビックラこいた。

検電器もあったけど、うっかりして電池が液漏れしてパーになり捨ててしまったな。
秋月電子の昔話(続)
2024.04.13
■支払方法

三時からの銀行、と書いたが、とにかく現金商売だった。
なんといっても現金は強い。

いまの時代だと現金が必要なのは【政治家】ぐらいか、と皮肉を言ったりする。とにかく日常で現金を使ったり持ち歩かなくなった。小銭も持ってないから自販機でジュースを買わない。健康にも良いし無駄金を使わなくなった。
現金を使うのは病院と床屋ぐらいか。薬局はキャッシュレス対応している。

以前、通販は現金書留で送金していたと思う。
現金書留の郵便料金は金額によっても変わるが、小銭が入って重くなると料金が上がるからできるだけ紙幣だけで済むように商品選択で調整して、きりの良い金額になるようにしていた。

その頃の現金書留の送り先は東京都世田谷区瀬田・・・で、秋葉原の実店舗とは違っていた。これはたぶん社長の自宅じゃないかと思う。

そのうちに、銀行振込もできるようになった。(何年頃だったか忘れたが)
FAXで見積依頼(在庫確認)を送り、返信があってから銀行振込をしていた。

クレジットで払えるようになったのは、つい、この前のことのような気がする。実際は10年以上前か。未確認

■Webサイト

最初のWebサイトは手作り感あふれる印象だった。確かどこかに保存していると思うけど、なかなか見つからない。
記憶では、通販部のおば・・・げふんげふん・・・お姉さん達の集合写真も載っていた。しかも「面会はご遠慮ください」とも書いてあったと思う。
いまの時代の感覚だと、よくそんなの載せるなあという意見もあるかも。
小学校や中学校の学校だよりに生徒の写真が載っていても、みんなボカシで誰が誰だかサッパリわからん、これが普通という時代。(わからないけど、ネット配布の物はボカシで、生徒に配っている物はボカシがないのかも)

■販売コード(通販コード)

アナログ時代?は、そんなものは無かった。
「かわら版」(手書き+切り貼り+ワープロ)に載っている商品名を「忠実に」注文書へ書き写していた。時に長ったらしい商品名もあった。

でも、あの頃の「かわら版」は大好きだった。なんというか、味わいがあった。この感覚を忘れてはいけないなあと思う。1冊だけは保存してある。何度も何度も読み返していた。

いまの「かわら版」はキレイでカラーで整っているが、かえって面白みがなく、すぐゴミ箱へ放り込んでしまう。(老眼のせいで細かい字を拒否しているのも原因)

コードがついてから、注文時には便利になった。部品表にも書いておいて、それを見ながら注文する。
ところが、今回見直しとなり、1から始まる6桁の数字に変わり・・・従来のコードたとえばP-何番とかでも通るだろうけど、結局新しいコードを調べて部品表を全面的に書き換える羽目に・・・

あと、「ブランケットオーダー」が好きだな。予めテキストファイルを作っておいて、そこへコピペする。
但し、同じ部品をあっちで3個、こっちで2個、合計5個というのができないので要注意だ。
実際同じ部品をメイン基板で何個、サブ基板で何個という感じで使うから、これは予め整理して数を合計してから入力する必要がある。
引用:「同じ商品(販売コード)をマージされる場合はお手数ですが、合計して1行にまとめて下さい。」と書いてある。

■10個買うと割引

これは最近見かけなくなったな。
以前は、10個以上の単価があった。たとえばボリュームを10個買うと1個分まけてくれる。

■たまには間違いも

システム化が進んだが、結局、人間の手に頼っているところで間違いが生じる。
注文していない物が入っていたことがあった。
申し出たら、きちんと対応して頂いた。


長くなったのでまた。
秋月電子の昔話
2024.04.12
昔と言っても私の知っている範囲の昔。

■実店舗

秋葉原の実店舗に初めて行ったのは1997年頃だったか。
最初からここを目指したのではなく、会社の用事で部品を探しに来た。(出張時)
最初は若松通商に行って、ここで聞くのも失礼だったかもしれないが、秋月の場所を遠慮なく聞いてみたりしたっけ。普通に教えてくれました。
今のようにスマホで地図とかナビとか無い時代。
メイドさん萌え萌えもなかった、と思う。

その頃は、某宗教のビラまき隊がいたし、通りは人があふれていた。
会社の仲間と3人で行動していたが、はぐれてしまって、人が多いもんだから近くにいたって全然わからん。携帯で連絡をとりながら再会した。

ここが!あの!!秋月電子!!! と大興奮したかどうか記憶にないが、ボーッとなって夢か現実か最初わからなかったような気がする。

行く前は買うものがいっぱいあるなあ!と思っていたけど、いざ店に来てみると、何を選んで良いのやら、
しかも人がギッシリで、(真夏に来た時)汗臭かったという印象。
いまの新しい店舗じゃなくて、改装前の狭い店だった頃。

あっ、そうだ、会社に抵抗をE12系列か24系列で全部揃えたくて、この機会に買おうと。
当時カーボン抵抗は通販では取り扱っていなくて、でも、実店舗には有った。
かつては抵抗やコンデンサは扱っていなかったんだよな。商品の傾向としてはICとかキット、ジャンクが多かった。
陳列棚には袋に100個入りの抵抗がたくさんあった。
平らなザルが置いてあって、系列を思い出しながらそれに放り込んでいった。
こんなにゴチャゴチャたくさん買って、レジの店員さん面倒じゃないかなと気になったりした。
当時は茶色の紙袋に書いて計算していたと思う。


■通販

●送料
妙なところに注目するが、送料は昔から600円だった。昔というのは曖昧だが、たとえば80年代の雑誌広告を見ると〒600と書いてある。

「初歩のラジオ」のページごとに1行で読者の投稿が書いてあったけど、その中に(この600円は高い)「差額を返せ」と書かれていたのを覚えている。そう、当時600円というのは(送料の感覚としては)高いほうだった。

距離や梱包の大きさにもよるが、安く送る手段もないわけではないけれど、秋月としては一律600円でおそらく送料の計算の手間を省いていたのかな、と勝手に想像します。

●取扱商品
今はほとんどなくなってしまったが、いわゆるジャンク、これが秋月の楽しみだったと思う。

色々珍しい物が売られていて、これ何だろう、何に使う物だろう、これがこの値段で、面白そう、・・・とにかく楽しみだった。そして、次々に色々買ってしまったのであった。

現代では電子機器の製造業が日本から出ていって少なくなったし、管理がうるさくなったんだろうな、工場から出る廃品はあまりないんだろうね。有っても、知らないところで勝手に出回らないようにつぶしてから捨てるという事なのだろうと思う。

自分も昔つとめていた会社で、棚卸の時に余剰在庫を捨てているのを見ていた。売れ残りの製品や、こんな新品の部品が大量に、なんてもったいない、と信じられなかった。会社にしてみれば課税されるからサッサと捨てたい物だったろう。

電線なんか束のままポンポン投げてあった。それらを見て、ちくしょうと思った。

実験で使うため(電源装置と基板をつなぐ)AWG20の赤と黒を30cmばかり分けてもらうのもいちいち書類を書いて上司に回して、ずいぶんたってから資材課から届く、というか・・・私は下っ端だったからか「取りに来い」とか内線電話で言われて、行ってみると仰々しく出庫伝票の付いたビニール袋に短い電線2本が入っている。(どうせ袋とか伝票は捨てるのに)

その帰りに、「ついでに」これを誰々さんに、係長に渡しておいて、って書類などを押し付けられたりして、お前は伝書鳩だとか言われて・・・あれこれ(非常に)面倒くさい事を思い出していた。
色々うるさいくせに結局こんな粗末にしてポンポン捨てるのかと。

まあとにかく、棚卸で捨ててあった部品を拾ってきていじって遊んだりしたが、結局持て余して捨てたりしていた。
そういえば80年代の雑誌を見ると、千石さんが「余剰在庫を買い取ります」といった広告を出していた。

もと秋月のアルバイト店員さんだった方のインタビュー(新聞記事)があり、当時はICなど買い取っていたという。
これは私がある電子部品の商社の営業マンから直接聞いた話だが、秋月は「三時からの銀行」と呼ばれているという。
銀行の窓口は三時で閉まってしまうが、会社を経営していると何らかの理由で現金が必要になる時がある。そんな時に余剰品を持ち込んで、買い取ってもらって現金に換えるというわけ。


長くなったので続きは改めて。
短波と短波ラジオ
2024.04.09
子どもの頃、短波というのは不思議な存在だった。

普通のラジカセにはAM/FMしかついてない。短波(SW)は珍しかったと思う。(そうでもないか、人によって違う)

ちなみに同級生のイニシャルがSWだったヤツを短波と呼んでみたこともある。

町のごみ収集のオジサン(同級生の祖父)と知り合いになり、集積場に連れて行ってもらって、粗大ごみで集めたラジカセやらテレビやらたくさんあって選びたい放題だった。

そこでもらったのはナショナルのRQ448(MAC FF)というラジカセで短波がついていた。全く壊れていなくて何で捨てられたのか、買い替えで捨てられたんだろうと思う。

ご参考
ttp://plaza.harmonix.ne.jp/~ita/1123/RQ448.htm

これは遊べるラジカセで、ワイヤレスマイクは付いていたし、短波も受信できた。

その電波の性質上、夜になるとよく放送が入る。

ダイヤルを端からソーッと回しながら耳をすますと、知らない外国語やら不思議な電子音やらが聞こえてきた。
5MHzや10MHzでは一定の音を繰り返す、いわゆる標準電波(日本ではJJYだった)が受信できた。これを時計合わせに使ったりしたものだった。この電波を利用して時計を正確に動かせないか、という発想は当時あったが、どうやって実現するか、というところで前進できなかった。
電子工作のコンテスト(電波新聞社)の出品に、時報で時計を0秒に合わせる仕組みの作品があって興味をもった。これが応用できないかと考えていた。

モールス信号や、あるいは7MHzあたりでモガモガ声が聞こえていた。これはアマチュア無線で、SSBだから普通のラジオで聴くとモガモガになる。
共立電子からBFOキットを買って、うまく調整してやるとクリアに聴こえるようになった。
それ以前はなんとかしてモガモガ状態で交信を聞き取ってやろうというチャレンジをしていた。
交信の内容を書くのは良くないが、もう何十年も経過しているので支障ないと思う。確か自動車が故障して、無線仲間から修理方法のアドバイスをもらうようなやりとりだった。

夜な夜なラジオのダイヤルを回したり、ラジオの製作に載っていたBCLの周波数情報を見ながら周波数を合わせて放送を聞こうとした。

だけど周波数直読ではなく、大雑把な目盛りだからなかなか思ったように合わせられない。受信できない。
昔「何メーターバンド」といって波長で周波数帯を示していて、結構大雑把なものだった。

いまでこそ、周波数をテンキーから打ち込むラジオを持っているが、当時はそんなもの夢だった。ただ、ラジオの製作の(BCL記事の)筆者は持っていて、記事にたびたび登場するそのラジオの写真を見ながら、あこがれていたのである。

ラジオたんぱで株式を聴いたり、競馬とか、もう完全に大人の世界でサッパリわからなかった。こち亀の両さんが短波ラジオで競馬中継を聴いているのは漫画で見たことがあるだろう。

ラジカセのおまけの短波だから周波数は確か12MHzあたりまでしか無く、それ以上の周波数を聴いてみたいと思ってもできなかった。

ところで、短波ラジオの自作もした。

ラジオの製作の記事だったが、非常に簡単な回路で短波が受信できるというのでビビッと来て部品を注文して組み立てた。
コイルは単2電池に紙を巻き、そこへエナメル線を10回巻いて作る。ほどけないようにテープを貼ったり接着剤を塗って固める。

トランジスタ2石だったと思うけど、初段のバイアス抵抗は5.1MΩというのはなぜか覚えている。バリコンは普通に見かけるAMの単連でよかった。

クリスタルイヤホンで聴くんだったっけ。

さっきのラジカセよりもはるかに大雑把な代物だったが、これで短波を聴くのはかえって新鮮だった。

ケースは、ナッツボンの空き缶だったと思う。いまは袋に入って売られているが、当時は缶入りが有り、フタは半透明のプラスチックだった。
フタはポリバリコンを取り付けるのにちょうどよかった。

シールド効果を期待して金属の入れ物を使ったのではなく、たまたま転がっていたものをテキトーに使っていた、あの頃。

そのほか、意外な方法で短波を受信したこともある。

当時よくテレビが捨てられていて、拾ってきては部品を外して集めていたが、チューナーユニットは使い道がなかった。
見た感じ、何か使えそうにも見えるが、結局は何も使い道がなかった。
アンテナ入力と、電源をどこかにつなげば出力が出るのだろう、ぐらいしか当時はわからなかった。

それでまあ、適当に電池をつなぎ、アンテナをつないで、その出力をFMラジオにつないでみたと思う。このあたりは記憶がハッキリしないけど、確かに実験をした。
あるいは低周波のアンプにつないだかもしれない。アンプといったけど、じつはラジカセのマイク入力につないで、そのスピーカーから聴いていただけという場合もあった。これがお手軽だった。

そうすると、どういうわけか「自由中国の声」(当時)の日本語放送が聞こえてきた。あの曲。(あの曲といってわかる人はわかる)

当時は原理がわからず、そして後日再現もできなかった。

たぶんだけど、原理的にはダイレクトコンバージョンみたいな事になっていたんじゃないかなと思う。
エッチングと基板 つづき
2024.04.09
中学生の頃に初めてプリント基板の製作キットを買った話を書いたが、それは何のためだったか。

確か2年生だったと思うが、学校のクラブ活動で工作部に入った。
ほとんどの人はプラモを組み立てていたが、自分はプラモも作ったけど、やっぱり電子工作をしてみたかった。
そこで、「技術」の教科書に載っていたラジオを作ろうとした。

最初に作りたい物や活動したい事の希望を書いて提出する紙があり、そこへ「ラジオを作る」と書いておいたら、顧問の先生から「ラジオなんか作ってどうすんだ、買えばいいだろ」という反応。

(顧問の先生は美術の教師)

そりゃそうですが先生・・・
「勉強の為」だと言えば相手は学校の先生だから納得してもらえたと思う。当時何と言ったかは忘れた。

それで実際に部品を買い集めて(当時は通販)作ったんだよな。だけどその時は鳴らなくて、あとで色々いじって直したと思うが、このあたりの記憶もない。作ったのは確か。

まあ、確かに実用性は無かった。

ケースに入れなくて基板むきだしだからゴミっぽくなる。むきだしでホコリをかぶるし、ホコリをかぶれば、なおさらゴミっぽくなる。
いまではそう思うけど、当時は通電して動作する部分にしか興味がなかった。

ケース加工もしなかったわけじゃないけど、よくある透明スチロールのケースにはんだごてでブスッとさして(くさい、と母から苦情)適当に穴を開けていた。

まともなドリルも持っていなかった頃だし、手回しのドリルで細い刃から折ってしまい、予定外に大きい穴をあけたりしていた。

あるいはカッターナイフの先端を突き立て、それをぐるぐる回すと皿もみのようにして穴があくので、この技を多用していた頃もあった。

当時ケースは透明スチロール製のものがたくさんあって、これは親父が町の健診に行った時に胃の発泡剤が入っていた箱がたくさん捨てられていたのでもらってきたらしい。
結構しっかりしていて、使い捨てにするにはもったいない箱だった。いまの時代だとエコとか言って紙箱になってるのかなと。

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