ユニバーサル基板の代わり
2023.01.09
やはりパーツ屋がない為に、手に入らない材料や部品は多かった。

ユニバーサル基板なんかも、貴重な通販の機会に科学教材社から買ったものを大事に使いまわしていた。2.54mmピッチじゃなくて、あれは4mmピッチだったか忘れたけど。

そこで考えたのは、板に画鋲をさして部品をハンダ付けする事でした。

釘も検討したが、いまいちハンダがつきにくい。接続点として場所が狭すぎる感じがしたので早々にあきらめた。

画鋲だったら近所の店でも売っている。板は自宅に切れ端がある。思いついて、すぐ走って画鋲を買ってきたものでした。
昔は古賀商店といって、玩具やらプラモやら文房具を置いてある店が近所に有った。のちに扇風機のプラモ(当時でも売れ残って、ショーケースで箱が色あせていた)を買ったのも、この店。

やっぱり新品の画鋲はピカピカ光っていて、ハンダを流してもきれいにつく。最高な気分。

部品の配置を考える所で、頭がこんがらかって、うまくできなかったけど、とにかくそれなりの準備はできた。

部品を付けていくのだが、一度暖まった画鋲は、なかなか冷めない。ハンダが融けている状態が続き、その間、部品を押さえておかなければならない。

また、ひとつの画鋲に複数の部品やリード線を付ける時は、先に付けたリード線がハンダを融かしたときに外れてしまう。

とにかくラジオを作り、鳴ったはずだが、あまり印象に残ってない。

当時使った部品は、前に書いたようにゴミから取り外した物だったので、基本的にリードが短かった。だから画鋲と画鋲の間に渡すには長さが足りなかった。

ツギハギも格好悪いし、気分が下がってしまっていた。

ほかの人にとって役立つアイデアでもないし、ただ苦労したという話、でした。
トランジスタ
2023.01.09
子供の頃に良く使ったトランジスタは、
2SC372、2SC458、2SC815、2SC828、2SC945、あと2SB54、2SB56とか・・・

当時はメーカーまで気にしてなかったが、2SC372(東芝)、2SC458(日立)、2SC815,945(NEC)、2SB54(東芝)です。

いずれにしても、パーツ店は身近になかったし、仮にあったとしても先立つもの(お金)が無かったから、拾ってきた家電品から外すしかなかった。

主にテレビの基板から取り外して、たくさん集めていた。

当然、そのテレビのメーカーのトランジスタという事になる。ナショナルならナショナル、日立なら日立とか。

2SB54あたりはラジオから外したと思う。金属の円筒形のパッケージで、ピンの並びはEBCだったような。コレクタマーク?の捺印がパッケージに有る。

2SC815は、岩通の留守番電話から外したのは覚えている。雑誌の記事で「2SC1815」というものが指定されていたけど、あいにく手元にない。だけど2SC815というのは何となく(型番が)似ているなあ、と思って試しに使ってみた。テキトー(笑)

1石ラジオを作ろうとした時、ポリバリコンが無いので似たような回転部品として可変抵抗を使ってみたけど全くダメだったという経験がある。今でこそ、そりゃーダメに決まっているさと言えるけど当時は何も知らず、試してみるしかなかった。

2SC458は形が変わっていて好きだった。2SC372の独特の形も良かった。

2SC828は幼い頃からうちに有った家具調テレビが、中学の頃には引退して私のパーツ取りの餌食になったもの。高校2年の時にワンボードマイコンのLED駆動用にも役立った。(今でも有る)

当時は、自作した回路が動かない時、何が悪いのか分からない事が多々あった。プラス、マイナスの間違いとか結線ミスとか、なかなか見つけきれなかったけれど、それ以前に前記のようないい加減な部品選定も原因だった。

バリコンの使い方も最初間違っていて、たかがゲルマラジオ、簡単なゲルマラジオ、だけど全く聞こえない、という期間が長く続いたっけ。何度もチャレンジした。何が悪いのかわからないじゃない。できるだけ本の内容に忠実に作ろうとした。

当時は勝手がわからないから、勝手がわからないというのは、たとえば500オームの抵抗を使うと書いてあっても、実際には500オームちょうどの抵抗はなかなか無い。E24系列などで作られているから。
古い規格では500オームとかは有った。5マイクロファラッドとか。真空管ラジオに使われている部品がそうなっていた。

そこで、現実に有るのは470オームか510オームで、果たして、これが使えるのかちゃんと動くのか?いまいち自信がなかった。成功体験が少なかったから、全くわからなかった。

単に電源表示LEDを点灯させるための抵抗だったら、その程度の誤差は問題ない事ぐらいはわかる。

だけど当時は、作った物が動かない、果たして原因は?というところで、この部品が書いてある通りじゃないからダメなのかもしれない?と思ったわけです。

いや、さっきの500オームだけど1Kオームを2本並列にすればいいんじゃないとか、まあそれはそうだけど、並列とか直列は後から知った事で、これも「書いてある通りにしないと動かないかもしれない」にひっかかって、なかなかできなかっただろう。

さっき書いたバリコンの使い方は、エアバリコンだったけど、当時は真空管ラジオが良く捨ててあった。今ではオークション等で結構な値段で取引されているけど、当時は完全に時代遅れの物として見捨てられて、いくらでもあった。

その拾ってきたラジオから取り外したバリコンを使って、ゲルマラジオを作ろうとしたわけ。

バリコンにはローターとステータがある。ローターはツマミを回して動く羽根の部分。ステータはそれと組み合わさる本体側の部分。
それぞれの電極間の静電容量が、羽根の出し入れで変化するのでチューニングできるわけです。

紛らわしいのは、ステータの端子が両サイドにあった事です。2連ということじゃなくて、反対側にも端子があった。どちらも電気的には同じ端子。たぶんラジオの配線上の都合でどっちにも接続できるようになっていたと思う。

本来の接続は、ロータ側とステータ側のそれぞれに接続しなければバリコンとして機能しないのだが、私は最初、ステータの2つの端子に接続していた。
それでウンともスンとも鳴らないから、おかしいなあ、簡単なのに?間違ってないのに?

イヤホンがマグネチックだからダメなのかな、でも鉱石ラジオの本にはマグネチックレシーバというのがあったぞ。感度は劣るけど使えるようだからいいんじゃないか。わからんなあ。
貴重な通販の機会に、クリスタルイヤホンを注文してみたりとか。
テレビの基板から取り外したゲルマダイオードも、熱のかけすぎとか最初から壊れていた可能性もあるし、どうなんだろうと。
色々疑ってみたり調べてみたり・・・
あるいは、コイルの作り方に問題があるのかなとも思った。そもそも、いい加減だったかもしれないが・・・
台所の箸立のカバーを失敬して、テレビの偏向コイルをほぐして取ったエナメル線を巻いてコイルを作った。

バリコンのつなぎ方は、ひょっとして?と気づいた瞬間があって、回転軸の近くに接触子があったと思うけど、これは何だろう。試してみようとした。
とりあえずTVアンテナに触れてみると、ビーというハム音がかすかに聞こえた。放送は聞こえないけど。

もしかして?と思い、2Fから線をおろしてアンテナを張り、これも同じくテレビの偏向コイルをほぐした線だったが、長いので重宝した。
当時は庭にヒノキが立っていたのでよじ登り、反対側を結わえ付けてワイヤーアンテナ(いい加減なシロモノ)にした。
アースはよくわからないけど、拾った釘を地面に適当に打ち込んで、これでいいだろうと(笑)

そして、そーっとバリコンを回すと何かの声が聞こえてきた。ああ、近所のAさんのばあちゃんがそこの畑で鳴らしているラジオだろうかと最初思ったけど、いや、待て、違う。

イヤホンから聞こえているのは間違いない。だめかも?と思っていたマグネチックイヤホンなのに。ささやくような声だけど確かに放送を受信している。

それこそ飛び上がって喜びましたね。めったにこういう事はなかったです。

最初トランジスタの話だったのに、なぜか脱線してしまった。
六兵衛
2023.01.06
これ(写真)は、長崎県島原地方に伝わる「六兵衛」という料理です。


対馬などにもあります。

簡単に書くと、さつまいもから作られた「うどん」です。

黒っぽくてあまりおいしそうに見えませんが、食べてみると普通においしいものです。ちょっと見た目で苦手な方もいらっしゃるようです。

うどんと違って、麺がぶつぶつ切れやすく、長いのをツルツルすすって食べるというよりは・・・箸でつまんで食べたり、スプーンなどですくって食べる感じです。

地元の料理のご紹介でした。
判定試験
2023.01.06
先日、判定試験の許可が出ました。いつでもオンラインで受験できます。
数日間、復習をよく繰り返してから挑みます。

これで合格すれば、次はCBT方式での修了試験を受けられるようになります。
修了試験に合格すれば、免許取得できます。
専門学校
2023.01.05
工業高校を卒業したらどうするか、就職するかは決めかねていて、どうしたもんだろうなと、当時悩んだものでした。

周囲の同級生から、就職どこにするか決まった?なんて聞かれたりして、余計にあせりました。みんな進んでるんだ。自分なにも決めてない。あせるばかり。

大学も一応考えましたが、成績表が現実を教えてくれました。

工業高校の実習助手の道もあるよ?と先生から教えてもらったりもしました。それも悪くないなと一時考えました。

いずれにしても、すぐ就職することは考えられませんでした。

専門学校だと無試験(書類選考)か、有っても面接ぐらいで行けるので楽勝だなと。その2年か3年の間に就職を考えようと。

いろんな学校のパンフレットを取り寄せましたけど、あとで大変なことになりました。大変というのは、それぞれの学校からセールス電話がかかってきて、その対応に追われたわけです。

パンフレットだけでなく、学校紹介のビデオテープを送ってきたところもありました。

コンピューターや電子工学以外にも、なぜかパイロットの学校もあり、学校名は忘れたけど、とにかく無料だとか。国の関係機関なので無料でできるそうです。もう忘れましたけど、とにかく無料でパイロットになれるという夢のような学校でした。(現実は甘くないでしょうけどね)

間違ってそこに行っていたら、また違った人生を歩んでいたかもしれません。やっぱり落ちこぼれていたかも。

京都コンピュータ学院などのパンフレットも見ましたけど、よそで暮らす勇気がなかった。知らない土地にひとりで行くなんて。

最終的に、県内の専門学校に入学を決めたわけです。

その半年ぐらい前、無線部の活動で長崎市内での試合を撮影に行った事があり、当時は陸上競技場があって、そこに立った時に何となく、この土地で暮らす日が来るような気がすると思ったのでした。まさかそれが現実になろうとは。

10名前後の下宿屋に入り、最初は2人しかいなくて徐々に仲間が入って増えてきました。

たまたま自分の部屋を開けっぱなしにしていたら、廊下を通りがかったヤツが私の部屋のパソコン(MZ-2000)を見て、パソコンに興味あるの?俺も!ってな具合で、彼とは長いつきあいが始まりました。

自分は3年コースの学科に入ったけれど、なんと、5人しかおらず、まずは他科と一緒に授業を受ける事になりました。3年目だけが特別コースになるらしい。
2年目に希望を聞かれて、最初の5人の同期はいなくなったし、システム工学科として2年で卒業する道を選びました。

当時は汎用機のプログラマを養成する時代でした。メインフレームってやつです。

COBOLのバッチ処理とか。全然COOLじゃないCOBOLのプログラミングを、超遅いACOS-250で実習していました。

そのほか、アセンブラとしてはCASL(当時の情報処理技術者試験に出ていた)を習ったり、あとはC言語の講座もありました。

ただ、全般的にたるんだ学校だったと思います。先生たちもやる気がなかったんでしょうね。放棄して寝る先生とか、みんなとおしゃべりに夢中になる先生もいました。なんてひどい所に来たのだと。

1年で辞めてしまう人たちもいました。

こんな状況では、あとは自分の頑張りだけですよ。自分も含めて、気合の入った5人がグループとなり、いろんな事に挑戦していきました。

ソフトの学校なのに自分だけハードウェアを卒業研究のテーマに選んだりして・・・それで作ったのがZ80のLED電光板付きのポータブルマイコン(現存)。

2年間は当時は長く感じた。いまの2年間とは感覚が違う。もう戻れないけど。

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