駄菓子屋は悪の巣窟
2025.07.16
小学生の頃に有った駄菓子屋は、学校からは「悪の巣窟」のように言われていました。

事あるごとに朝礼などで、あの駄菓子屋は悪だと。万引きは悪。そして、買い食いは悪。
あのバーサンは悪だと。

万引きはわかるけど、なんで買い食いは悪なんだ。(当時でも疑問)

学校の先生は、たびたび店に苦情を入れに行っていたかもしれません。しかしバーサンに商売やめろとは言えませんし、やめろって言われてやめるわけにもいかんでしょう。
学校としては、こうです。子どもが非行に走らないようにしてください。そんなところじゃないでしょうか。

その店は横断歩道をわたってすぐの場所にありました。
小さくてぼろい建物で、見た目では二階建てのようでした。

店の前にも陳列があったけど、閉店時は商品を中にしまいこんでいました。

数台の自動販売機と、ガチャガチャの機械がありました。
このガチャガチャの機械だけでも色々と思い出します。(ほとんどは嫌な記憶)

ぎっしり詰まった狭い店内に入ると、左手にはパイプ椅子が3脚ほど有り、すでに先客がいたりしました。
そのあたりに、パンを陳列するガラスケースがあったような気がします。
ガラスケースで外と仕切られていたのではなかったか。

先客も色々で、悪い上級生だったりすると最悪です。すぐに逃げなければなりません。脅されたり、いじめられたりします。

カップ麺に湯を注いでもらって食べている人を見かけると、自分も食べたくなったものです。
でも、そんな食事の時間でもないのに何か食べて満腹になり、家に帰ってご飯を食べないと怒られるから食べるわけにはいきません。

当時はドラえもんの「おかしメン」がお気に入りでした。(フタにドラえもんのシールつき)

座っていた場所の前には小さなテーブルがあったように思いますが、その上にはくじ引きの箱がありました。ごちゃごちゃ置いてあるから、空いたスペースなんかわずかなものでした。

アイスの木匙みたいな形をしたクジがたくさん差し込んであり、お金を払ってクジを引き、紙をめくって何等賞が出たら、その何等賞の引き出しを開けて好きなものを選んで取り出す。
湿気たビスケットが入っていた事もあり、腹が減っていたので勢いで食ってしまいました。

クジも色々な種類があり、記憶が確かではないものの「ねぶる」と文字が浮き出る物もあったような気がします。母親が見たら絶対、顔をしかめそうなものでした。

バーサンは階段の下のちょっとしたスペースに陣取っており、そこに座ったまま接客と会計をしていました。

その前あたりに火鉢と、火鉢にヤカンが乗っていました。

右手の奥に見える棚の上には、海苔と同じ容器に入った「串カツ」とか、タレのついたおつまみのような物が2つか3つありました。
製造年月日も賞味期限もわかりません。とにかく、1本20円とかそんなものでした。

その横にはマブチモーターとか模型関係の物があったり、甘納豆のクジなどが吊るしてありました。
プラモの箱も色々と積み重ねてありました。

イテテガムを買ったのはなんとなく覚えています。それと、あまり軍資金がない時はマルカワフーセンガムとか安いものを買っていました。
チョコバット君だったか、これには一時ハマって、そればっかり食べていたような記憶です。

吊るしてある物の中には、ゴムボールを押して取り出すやつもあったような気がします。

そのあたり一帯は陳列台で、お菓子の陳列の上に汚い野良猫が寝そべっていました。誰も気にしません。

モロッコ・ヨーグルというやつ、小さな容器に入っているクリームを舐める。

それから粉ジュース。小さな袋にジュースの粉が入っていて、ストローで吸うか、ストローの先をねぶって粉を付着させ、それを舐める。いかにも汚らしく、母親が見たら絶対顔をしかめるでしょう。
わざわざ家に持ち帰って、コップの水に溶かして飲むやつはあまりいなかった。試してみたけど、そんなにおいしいとは思わなかった。薄かった。

ベビースターにお湯を注いでみたけど、全然おいしくなくて、そのまま食べたほうが良かったという具合です。

入口から入って右手の奥はゲームコーナーで、電子ルーレットみたいな機械があり、硬貨を入れて回し、当たりが出ると硬貨がチャカチャカ出てくる仕組みでした。

正直言って、どういうルールだったのか当時でもわかっていませんでした。適当に硬貨を入れて回していました。

当時、小学生の自分でも、えっ、現金が出てきて良いの?と思ったけど、誰も気にしません。いわゆる、とばくゲーム機の一種じゃないかと。金額は少ないけれど。

当時たまにニュースで「とばくゲーム機」の摘発があり、警察がブルドーザーなどでゲーム機をつぶしている様子がTVニュースで流れたりして、ああ、もったいないなあ、と嘆いたものです。

そういえば「新幹線ゲーム」もありました。一度もクリアできなかったのが心残りでした。無情にも10円玉が吸い込まれておしまいです。

店内は過去いつからそこに有るのか分からない有象無象の品物でごちゃごちゃでした。売れるものは売れるんだろうけど、売れないものは何年も何十年もずっとそこに在るという世界でした。

夏になれば花火も売っていましたけど、冬にどうしても爆竹をやりたいというガキがあらわれました。自分です。
それでバーサンとの交渉です。どうしても爆竹で遊びたい。倉庫に有れば出して下さいと。色々言われましたが、結局、バーサンは二階にのぼって爆竹を出してきてくれました。

普通に売っていた花火もくせがあり、よく見ると製造は昭和40年代(当時は昭和50年代後半)、使えるのか不安だったけど試してみたら見事に花開きました。

この店がどういう構造だったのかは今となってはわかりません。現在は跡形もありません。
トイレはどうしていたのか。風呂はあったのか。生活の場所は?

ひょっとしたら、後ろに母屋があったのかもしれません。国土地理院で昔の航空写真を見ても、いまいち良くわかりませんでした。

この店は通称「****」で子どもたちの間には通っていましたが、どうやら正式名称は違っていて、「長沢商店」だったようです。なんとかパンの看板があって、その横にそう書いてありましたから。

バーサンはおそらく2Fで寝起きしていたものと思いますが、のぼって見たことがありません。いや、一度はバーサンの後を追って、のぞいてみたかもしれません。記憶がハッキリしない。それぐらい、謎の空間でした。
ちょっとしたSF(すこし・ふしぎ)のネタになりそうです。

あのバーサンは永遠の生命を持つ魔女なのかもしれないと思いましたが、そうではありませんでした。

中学生になり、高校生になり、あの駄菓子屋さんからはすっかり足が遠のいていました。

進学してよそで暮らし、また地元に戻ってきて、たまたま近所の医院に行ったら、あのバーサンが待合に座っていました。
どこか具合が悪いのかな、と心配でしたが、それからまもなく亡くなられたようです。

そして、あの駄菓子屋は跡形もなく、更地になってしまいました。
液晶ゲーム等
2025.07.16
中学生の頃に見た、あれは確か任天堂の麻雀ゲーム機、液晶画面で横長の筐体で・・・私は当時も今も麻雀の遊び方を知らないので、適当にボタンを押してみただけでわけがわからないままです。

うちで唯一の液晶ゲーム機だった、ゲームボックス・ペンタ (親戚からもらった)
兄弟で奪い合っていたら、それを見ていた親父がキレまして、取り上げて外に放り投げてしまいました。庭にゴミを置いていた場所に叩きつけられて・・・さすがに壊れたかと思ったけれど無事で、なんて事するんだと思いました。

うちの親の年代にとっては、
そういったゲーム機なんかは理解の範囲を超えていたし、子どもが夢中になって勉強しないし、百害あって一利なしの代物だったことでしょう。

ゲームなんか何の役にもたたないのにお金をとるなんて悪の所業だと。当然、お金を払う価値なし、と。

花火を買ってきて楽しんでいたら、お金を燃やしているのと同じだと言い放ち、せっかくの楽しみが台無し。

電動鉛筆削りにも理解を示さず、あんなものは鉛筆をどんどん食ってしまって無駄になる。鉛筆はナイフで削るものと昔から決まっているんだと。

電卓を使うと馬鹿になるから子どもは使ってはいけない。
ある時、祖母と話していたら、祖母が私に電卓をくれた(親父に預けた)らしいことが判明しました。自分は受け取っていないのでおかしいなと思ったのです。隠していたんですねえ。


あのガチャガチャのコスモスが売っていた液晶ゲーム機
名前は何というのか忘れました。
音だけ覚えていて、ピピピッ、ピッピー、なんかUFOみたいな奴が表示されていたような、なかったような。
確か駄菓子屋の景品で、くじを全部引いても当たらないのでおかしいと思ったら、バーサンが出し惜しみしていたようでした。

自分が初めて遊んだゲーム&ウオッチは、ミッキーマウスが卵を集めるやつ。なんという名前だっけ。

近所の寿司屋の子が、ドンキーコングを持っていたのでよく借りて遊んでいました。マルチスクリーンです。
パターンが同じだから慣れてしまうとあっという間に上まで行って、すぐジャンプしてピキピキピキ・・・

同じ要領だと思って(慣れているから簡単だと)、ゲームセンターのドンキーコングをやってみたら、全然違っていてすぐに終わってしまいました。
昔のTVゲーム
2025.07.15
昔というと我々の年代は昭和です。

自分はだいたいゲームは苦手で、反射神経というか、そういうのが全然ダメで・・・すぐ終わってしまっていました。だから面白くなくて、ゲームにあまり興味を持たなかったのかも。

たまに親に連れていかれてデパート等に行くじゃないですか。
そのデパート屋上のゲームコーナーや、ゲームセンターの機械に100円を入れて遊ぼうとしてもすぐ終わってしまって、お金がもったいないと思ったのです。親から100円もらって、投入してすぐやられて終わって、また親にお金をもらうのが申し訳ない気持ちで一杯でした。

当時の自分にとっては、100円というのは大金でした。それをただ飲み込むだけのゲーム機。あとに何も残らない、虚しいものでした。駄菓子だったら100円で色々買えるし、お腹に残るのに・・・。

ところで、
近所の子や同級生は、新しいおもちゃが出るとすぐに買ってもらえるやつがいてうらやましかったのです。

はっきり言って、いま振り返ってみるとその仲の良かった友達とのつきあいは、私がおもちゃやゲームを借りに行くのが主な目的だったと思います。

そいつが持っていたゲーム機、たとえば・・・
任天堂のレーシング112、という名前は当時は知らなかったけど、形をなんとなく覚えていて今頃になって探してみたら名前がわかった次第。

テレビゲーム15は、中学生の頃にジャンクとして手に入れたっけ。改造してマイコンをTVにつなぐのに使ってくださいという事になっていました。デジタルRGBからRF(VHF 1ch or 2ch)への変換です。自分は改造せず、そのままゲームとして遊んでいました。
ゲーム内容は単純なもので、棒と点が画面上を動くだけ。

TVゲームじゃないけどゲーム&ウォッチ、これもずいぶん流行りました。うちは絶対買ってもらえなくて、友達から借りてきて遊んでいました。
下手なのは変わりませんでしたけどね。

フリスキートム水道管。これは蛍光表示管のゲームで、画面が光るから布団に隠れて遊ぶのにはちょうど良かったです。

はっきり覚えていないが学研のポーカーゲーム。見た目は電卓みたいなやつでした。これも友達が持っていたけど、遊び方がさっぱりわからなかったし、何が面白いのかも謎のままでした。
それに、学研といったら堅苦しいお勉強の会社だと思い込んでいて、トランシーバーとかゲーム機とか売ってるのが不思議に思えました。

それとゲームロボット九だったか十五だったか、どうしてこの友達はおもちゃを次々に買ってもらえるんだろうと思っていました。

そいつは海に近いところに住んでいて、当時はゴミがよく海岸に捨てられていたのです。誰でも構わず勝手に捨てていた、いまから考えるととんでもない時代でした。

「ゆかいな歯医者さん」というおもちゃもそいつは持っていて、飽きたのでしょう、海岸に捨てられていました。電極がタッチすると変な音が鳴る仕組みで、触らないように上手に歯を裏側から押して抜くという遊び方。
ゲームロボットも、ぶっ壊れた状態(親が壊した?)で海岸に投げてありました。

トミーの、音声で命令すると動くロボットもそいつは持っていました。

その友達と、駄菓子屋の景品をどっちが先に取るかという競争をした事がありました。
なんと一等賞はムデンのトランシーバー。
甘納豆のクジを引いて、当たったら自分のものです。
私は軍資金を調達するために自宅へ一旦戻って、また駄菓子屋に戻ってきました。
すると駄菓子屋のバーサン「**君が一等賞とったよ」 ガチョーン。

その足で友達の家へ行ってみると、ああ、あのトランシーバーがあるじゃないですか。
ちくしょー、ほしかったのに。

仕方なく触らせてもらいました。ああ、オレのものになっていたはずなのに。

それから何十年もたって、メルカリでそのトランシーバーを見つけたけれど、今さら手に入れても遅いのです。あの頃にほしかった。あーあ。

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