言い訳を考えるアルヨ
2023.02.11
※以下は私の妄想です。
気球を回収して調べたら、西側の部品が使われていた。英語の表記があった。
「アイヤー、そしたら我々のチガウナ、我々の気球ダタラちうごく製の零件オンリーヨ」
「行方不明の我々の気球ミツカタ、オモタカラ、是、我門的気球と言たケド、チガタミタイネ」
「我々の気象観測気球ザイナーリー?ドコイッチャタカシラ、ナクナタネ」
「我想、あの気球、美国の自作自演ネ」
・・・
詳細は発表されていませんが、意外とラズパイなんか使われていたり?と思います。
一般に市販されている物だけで構成し、防水とか保温処理をして使っているのではないかと勝手に想像。
仮にそうだとしても、一般に市販されている物まで規制しようがないです。ロシアのドローンに日本製のデジカメが載っていたように。
市販品の性能が昔に比べてはるかに上がっているのも事実です。カメラの解像度は上がってるし、無線機などもずっと小型に安価にできるようになりました。
気球は、これまでに目撃された、未確認飛行物体のひとつだったのかも。
ただ、ものすごいスピードで動くやつは何だか分かっていませんけど、そのうち捕獲して正体を明らかにしたいものです。
なんと異星人の乗り物だった。中から出てきたのは、リトル・グレイ、ラージノーズ・グレイ、アール・グレイ?だったとか。
そして・・・謎の言葉を発していた。「ケンケンミンミン、ジンジロゲー」
気球を回収して調べたら、西側の部品が使われていた。英語の表記があった。
「アイヤー、そしたら我々のチガウナ、我々の気球ダタラちうごく製の零件オンリーヨ」
「行方不明の我々の気球ミツカタ、オモタカラ、是、我門的気球と言たケド、チガタミタイネ」
「我々の気象観測気球ザイナーリー?ドコイッチャタカシラ、ナクナタネ」
「我想、あの気球、美国の自作自演ネ」
・・・
詳細は発表されていませんが、意外とラズパイなんか使われていたり?と思います。
一般に市販されている物だけで構成し、防水とか保温処理をして使っているのではないかと勝手に想像。
仮にそうだとしても、一般に市販されている物まで規制しようがないです。ロシアのドローンに日本製のデジカメが載っていたように。
市販品の性能が昔に比べてはるかに上がっているのも事実です。カメラの解像度は上がってるし、無線機などもずっと小型に安価にできるようになりました。
気球は、これまでに目撃された、未確認飛行物体のひとつだったのかも。
ただ、ものすごいスピードで動くやつは何だか分かっていませんけど、そのうち捕獲して正体を明らかにしたいものです。
なんと異星人の乗り物だった。中から出てきたのは、リトル・グレイ、ラージノーズ・グレイ、アール・グレイ?だったとか。
そして・・・謎の言葉を発していた。「ケンケンミンミン、ジンジロゲー」
第2級陸上特殊無線技士
2023.02.10
本日(2/10)CBT試験を受けてきました。合格は確実です。
むしろ簡単すぎて、こんなレベルで良いのかと複雑な気持ちです。アマ無線の4級以下という感触でした。
試験は実質3分ぐらいで終わりました。(法規+工学 各10問 選択式)
係員の方は、もう終わって出てきたかと驚いたかもしれません。
まあ、お金で免許を買っているようなものです。言い方が悪いかもしれませんけど。
これは業務用の免許で、職場で決められた無線機を使うだけでしょうから、運用の自由度はなく違法運用の可能性は少ないからかな?と勝手に想像しています。
この免許を取る方は、代表的なのはおまわりさん。警察学校で取得するそうです。警察無線や、速度取締のレーダーを扱うため。
試験にも、レーダーに関する問題が出てきます。ドップラーレーダーって、速度取締しか思い浮かびません。
タクシー無線は・・・最近どうなのかな。IP無線に変わりつつある?(不勉強でスミマセン)
IP無線は携帯電話の回線を利用したもので、免許不要です。
ドローンを飛ばすのにも、この免許が必要になるとか? いまのところドローンには興味なし。
今度は上級免許も目指したいものです。
「一総通」? ムチャです。これは最上級の資格、取れれば無敵ですが、マジで超難関です。
むしろ簡単すぎて、こんなレベルで良いのかと複雑な気持ちです。アマ無線の4級以下という感触でした。
試験は実質3分ぐらいで終わりました。(法規+工学 各10問 選択式)
係員の方は、もう終わって出てきたかと驚いたかもしれません。
まあ、お金で免許を買っているようなものです。言い方が悪いかもしれませんけど。
これは業務用の免許で、職場で決められた無線機を使うだけでしょうから、運用の自由度はなく違法運用の可能性は少ないからかな?と勝手に想像しています。
この免許を取る方は、代表的なのはおまわりさん。警察学校で取得するそうです。警察無線や、速度取締のレーダーを扱うため。
試験にも、レーダーに関する問題が出てきます。ドップラーレーダーって、速度取締しか思い浮かびません。
タクシー無線は・・・最近どうなのかな。IP無線に変わりつつある?(不勉強でスミマセン)
IP無線は携帯電話の回線を利用したもので、免許不要です。
ドローンを飛ばすのにも、この免許が必要になるとか? いまのところドローンには興味なし。
今度は上級免許も目指したいものです。
「一総通」? ムチャです。これは最上級の資格、取れれば無敵ですが、マジで超難関です。
有線放送電話
2023.02.08
有線放送電話・・・
私の出身の町では1979年頃まで使われていた電話で、電電公社の電話に置き換えられてしまった。
当時の電話番号は、2桁か3桁だったと思う。それがそのまま、電電公社の電話番号の2000番台に割り当てられた。もともとが22番だったら、2022になった。
だから、電話番号が2000番台は昔からの加入者だとわかる。
よく使われていた電話機は、ダイヤルの代わりにスピーカーが組み込まれていたもの。NEC製だった。
https://www.japanradiomuseum.com/yusen-sengo.html
この中の、スピーカーテレホンに似ていたけど、同じ形ではない。もう少し角張っていたような感じ。底面は金属ではなく、木でできていた。(家具調テレビの裏側とか、昔のステレオとかラジオの裏側にあった、あの圧縮材の板)
・・・と書き込みながら、検索してみたら画像がありました。転載はしませんが、実家に現物が転がっていたような気がするので、いずれ写真をUPするかもしれません。
子供の頃はとにかくなんでも分解して部品取りしていたので、当時の物があまり残っていません。なんで保存しておかなかったのだろうと悔やまれる物が色々あります。
いっぱい有る時には貴重だと思わないから、当時は不要だからそんな扱いだったのかも。
有線放送電話時代の電話帳も、大事に保管しておいたけど、いつの間にか捨てられていて残念。
そのうち交換台も再現してみたりして・・・妄想です。
私の出身の町では1979年頃まで使われていた電話で、電電公社の電話に置き換えられてしまった。
当時の電話番号は、2桁か3桁だったと思う。それがそのまま、電電公社の電話番号の2000番台に割り当てられた。もともとが22番だったら、2022になった。
だから、電話番号が2000番台は昔からの加入者だとわかる。
よく使われていた電話機は、ダイヤルの代わりにスピーカーが組み込まれていたもの。NEC製だった。
https://www.japanradiomuseum.com/yusen-sengo.html
この中の、スピーカーテレホンに似ていたけど、同じ形ではない。もう少し角張っていたような感じ。底面は金属ではなく、木でできていた。(家具調テレビの裏側とか、昔のステレオとかラジオの裏側にあった、あの圧縮材の板)
・・・と書き込みながら、検索してみたら画像がありました。転載はしませんが、実家に現物が転がっていたような気がするので、いずれ写真をUPするかもしれません。
子供の頃はとにかくなんでも分解して部品取りしていたので、当時の物があまり残っていません。なんで保存しておかなかったのだろうと悔やまれる物が色々あります。
いっぱい有る時には貴重だと思わないから、当時は不要だからそんな扱いだったのかも。
有線放送電話時代の電話帳も、大事に保管しておいたけど、いつの間にか捨てられていて残念。
そのうち交換台も再現してみたりして・・・妄想です。
テレビ(アナログ)は電子部品の宝庫だった
2023.02.08
末期のアナログテレビは、たいてい基板1枚におさまっていたが、家具調テレビの頃は色んな部品が満載だった。
基板だって何枚もあったし、お互いをつなぐ配線も多かったから、ある程度の量の電線を取ることもできた。電子部品の宝庫といっても良かった。
トランジスタはリードが長い状態で基板に載っていたから、ハンダを融かさなくても、指でつまんで前後に揺すれば、金属疲労でリードが折れて取り外す事ができた。(当然だが部品の根本ではなく基板側でリードが折れるように力をかける。たまに失敗して台無しになった)
そうやって、ハイエナのごとくゴミ捨て場をうろついて、荒らし回っていたのが小学生の頃の自分。たぶん、獲物を狙う猛獣のような目をしていただろう(笑)
ポケットは、基板から引きちぎった部品で一杯だった。手が汚れようが、どこかに手をこすって怪我しようがお構いなし。戦利品のことしか頭になかった。
さすがに、部品を引きちぎるのは効率が悪いので、ニッパーやドライバーを持ち歩くようになった。ランドセルの中に常備していた。学校帰りに粗大ごみのテレビを見つけても、これで対応できる。
ニッパーはナットを回すのにも利用できた。刃こぼれするので通常は禁止だが、当時はお構いなしだった。限られた道具しか持ってないから仕方ない。
真空管のテレビだったら、とにかく真空管をソケットから抜いて集めて、袋などがなくてポケットに入りきれなかったら、「しんくうかんのかくしばしょ」に置いておき、あとで取りに来た。
家と家の隙間の塀のブロックの穴で、秘密の場所だった。
ただ、テレビの部品でラジオを作るのは難しい。トランジスタや抵抗、コンデンサといった汎用部品は取れるけど、バリコンとかバーアンテナはラジオ特有のもので、別に手に入れなければならない。
壊れたラジオを拾ってきて、その部品でラジオを作るよりも、そのラジオが直るようなら直したほうがマシかな。
テレビで(自分にとって)謎だったのがチューナー。ただ格好いいので、チューナー部分のシャーシをはずして、飾るというか、いじくって遊んでいた。なんかメカメカな雰囲気がよかった。
特にUHFチューナーの内部は不思議な構成で、コイルがチョロチョロッと分散しているだけで、バリコンもラジオに比べたら小さい。
適当に電池をつないで、その出力をラジオにつないだらどうなるか試した事があった。面白い事に、短波放送が受信できたのは驚きだった。
いま考えてみると、おそらく中間周波数によってダイレクトコンバージョンみたいな働きをして短波受信ができたのではないだろうかと。
当時は自由中国の声、現在の台湾国際放送。その放送が聞こえた。
あと、テレビに関連してよく拾ってきたのはUHFコンバーター。
見た目はラジオっぽい。ツマミと横行の目盛りがあった。
昔のテレビはVHFだけだった。その後、UHF放送が始まってから、VHFのテレビでもUHFが受信できるようにコンバーターができた。
ただ、使い道がなかった。仕方ないなあと思っていたら、叔父もジャンク漁りが趣味で、ラジオを拾ってきたという。ただ、チューニングのつまみが無かった。
そこでハッと気づいて、あのUHFコンバーターのつまみが合うのでは?と・・・試してみたらピッタリ。デザイン的にもピッタリ。たぶん同じメーカーか、規格品だったのだろうけど、偶然ながら面白い事もあるもんだと思った。
中学生になっても、仲間と一緒に、テレビがたくさん捨ててある場所に乗り込んでいって、欲望の赴くままに戦利品を自転車に積んで帰ってきたっけ。
とにかく現場で解体したテレビの基板を、まるでお宝のように抱えて帰宅した。すると、たいていは鬼ババが居て、ゴミを拾ってくるなとか、いつもの決まり文句を言う。
捨てるふりをして、物置の裏にでも隠しておき、あとで少しずつ家の中に持ち込む。
基板のハンダを融かし、部品を取り外し、とにかく部品集めをしていた。集めて何をするわけでもないが、近くに部品屋は無いし、通販利用はかなりの大事業(当時の自分にとっては)だったし、何しろ拾ってきたものはタダだから利用しない手はなかった。
電子部品に飢えていた。
小箱にたくさん集めたものを、時々取り出してはニヤニヤしていた。物がたくさんあるってのは何か嬉しい。
ただ、あとで気づいたのは、取り外すよりも基板の状態で保管したほうが、探しやすくないかということ。欲しい抵抗値を探すのに、箱の中のゴチャゴチャを探るより、基板を眺めたほうが早い。
こんな事を高校生か、専門学校生の頃までやっていた。専門学校の頃は、ついにはコピー機まで拾ってきて、男二人で抱えてくるのが大変だったけど、結局動かなくて捨てたっけ。
パチンコ台とかCDプレーヤー(昔の据え置き型で大きかった)も拾ってきた。
基板の組立をしている工場が当時あって、夜な夜な、その廃品置き場をあさっていた。
基板だって何枚もあったし、お互いをつなぐ配線も多かったから、ある程度の量の電線を取ることもできた。電子部品の宝庫といっても良かった。
トランジスタはリードが長い状態で基板に載っていたから、ハンダを融かさなくても、指でつまんで前後に揺すれば、金属疲労でリードが折れて取り外す事ができた。(当然だが部品の根本ではなく基板側でリードが折れるように力をかける。たまに失敗して台無しになった)
そうやって、ハイエナのごとくゴミ捨て場をうろついて、荒らし回っていたのが小学生の頃の自分。たぶん、獲物を狙う猛獣のような目をしていただろう(笑)
ポケットは、基板から引きちぎった部品で一杯だった。手が汚れようが、どこかに手をこすって怪我しようがお構いなし。戦利品のことしか頭になかった。
さすがに、部品を引きちぎるのは効率が悪いので、ニッパーやドライバーを持ち歩くようになった。ランドセルの中に常備していた。学校帰りに粗大ごみのテレビを見つけても、これで対応できる。
ニッパーはナットを回すのにも利用できた。刃こぼれするので通常は禁止だが、当時はお構いなしだった。限られた道具しか持ってないから仕方ない。
真空管のテレビだったら、とにかく真空管をソケットから抜いて集めて、袋などがなくてポケットに入りきれなかったら、「しんくうかんのかくしばしょ」に置いておき、あとで取りに来た。
家と家の隙間の塀のブロックの穴で、秘密の場所だった。
ただ、テレビの部品でラジオを作るのは難しい。トランジスタや抵抗、コンデンサといった汎用部品は取れるけど、バリコンとかバーアンテナはラジオ特有のもので、別に手に入れなければならない。
壊れたラジオを拾ってきて、その部品でラジオを作るよりも、そのラジオが直るようなら直したほうがマシかな。
テレビで(自分にとって)謎だったのがチューナー。ただ格好いいので、チューナー部分のシャーシをはずして、飾るというか、いじくって遊んでいた。なんかメカメカな雰囲気がよかった。
特にUHFチューナーの内部は不思議な構成で、コイルがチョロチョロッと分散しているだけで、バリコンもラジオに比べたら小さい。
適当に電池をつないで、その出力をラジオにつないだらどうなるか試した事があった。面白い事に、短波放送が受信できたのは驚きだった。
いま考えてみると、おそらく中間周波数によってダイレクトコンバージョンみたいな働きをして短波受信ができたのではないだろうかと。
当時は自由中国の声、現在の台湾国際放送。その放送が聞こえた。
あと、テレビに関連してよく拾ってきたのはUHFコンバーター。
見た目はラジオっぽい。ツマミと横行の目盛りがあった。
昔のテレビはVHFだけだった。その後、UHF放送が始まってから、VHFのテレビでもUHFが受信できるようにコンバーターができた。
ただ、使い道がなかった。仕方ないなあと思っていたら、叔父もジャンク漁りが趣味で、ラジオを拾ってきたという。ただ、チューニングのつまみが無かった。
そこでハッと気づいて、あのUHFコンバーターのつまみが合うのでは?と・・・試してみたらピッタリ。デザイン的にもピッタリ。たぶん同じメーカーか、規格品だったのだろうけど、偶然ながら面白い事もあるもんだと思った。
中学生になっても、仲間と一緒に、テレビがたくさん捨ててある場所に乗り込んでいって、欲望の赴くままに戦利品を自転車に積んで帰ってきたっけ。
とにかく現場で解体したテレビの基板を、まるでお宝のように抱えて帰宅した。すると、たいていは鬼ババが居て、ゴミを拾ってくるなとか、いつもの決まり文句を言う。
捨てるふりをして、物置の裏にでも隠しておき、あとで少しずつ家の中に持ち込む。
基板のハンダを融かし、部品を取り外し、とにかく部品集めをしていた。集めて何をするわけでもないが、近くに部品屋は無いし、通販利用はかなりの大事業(当時の自分にとっては)だったし、何しろ拾ってきたものはタダだから利用しない手はなかった。
電子部品に飢えていた。
小箱にたくさん集めたものを、時々取り出してはニヤニヤしていた。物がたくさんあるってのは何か嬉しい。
ただ、あとで気づいたのは、取り外すよりも基板の状態で保管したほうが、探しやすくないかということ。欲しい抵抗値を探すのに、箱の中のゴチャゴチャを探るより、基板を眺めたほうが早い。
こんな事を高校生か、専門学校生の頃までやっていた。専門学校の頃は、ついにはコピー機まで拾ってきて、男二人で抱えてくるのが大変だったけど、結局動かなくて捨てたっけ。
パチンコ台とかCDプレーヤー(昔の据え置き型で大きかった)も拾ってきた。
基板の組立をしている工場が当時あって、夜な夜な、その廃品置き場をあさっていた。
電気に興味を持ったことと落書き帳
2023.02.08
始まりは、記憶が確かではない。
4歳か5歳だったかわからない。祖母の店(雑貨・食料品・たばこ)に冷蔵庫の修理に来ていた業者から、テスターを見せてもらって興味を持ったのは覚えている。赤・黒を接触させると針が振り切って、いま思えば、あれはゼロΩ調整だったんだなと。
叔父が電力会社に勤務していた事とか。
電気工事の屋内配線図を眺めて書き写したりとか。
オートメカニックとか自動車整備の雑誌を見て、特に電装系に興味をひかれて、その解説図ばかり見ていた覚えもある。あれは点火タイミングか何かの回路だったのか、仕組みが書かれていた。
身近にあった機械は、とにかく片っ端から分解して台無しにした。ラジオとかレコードプレーヤーとか、カメラや時計も。
そういった物は、使うのではなく、分解される為にあるのだと。
家具調テレビの後ろに潜り込んで、通気孔から中をのぞきこみ、中に人が入っていないか確かめようとした。
通気孔をほじくって割って広げ、その穴から鉛筆などを投げ込んでショートさせたりもした。そうすると電器屋さんが修理に来て、テレビの内部を堂々と見る事ができる。
落書き帳(白紙が綴じてある)を買ってもらい、思いつくままに回路図っぽいものを描いてみたり、あるいは発電所から自宅までの流れを延々と何ページにも渡って描いた。
電線2本がページの境界をまたぐ所では特に注意深く、切れ目がないように描いた。変なこだわりがあったものである。
まだ小学校に入る前だったと思うが、祖母に「叔父はどこ?」と聞いたら「きゅうでん」と答えた。その時の自分の脳内イメージは、「宮殿」で王様に仕える叔父の姿。意味不明。
この場合は九州電力のことで、略して九電。
新しくテレビを買った時に、添付されていた回路図を大事に保管して、何度も何度も広げて眺めて楽しい時間を過ごした。
保育所では、お遊戯の音楽には全く関心がなく、そのスピーカーの配線を追ってみることに執着していた。この線を追ってみると、別の部屋につながっていてレコードプレーヤーにつながっていた。ここに入ったらダメよと怒られただけ。
事務所の古い電話機(ダイヤル式)を3台もらって、電池をつないでお互いに通話できるようにして遊んでいた。ただ、ベルが鳴らないのは不満に思っており、この気持ちをその後何十年も引きずる事になる。
電話回線の電圧なんかも知らず、当時は書籍など身近になかった。適当に3ボルトをつないで試しただけ。
1979年に全国即時自動化といってダイヤル通話が全国でできるようになったけど、それまで自分の住んでいた町で使われていた農村電話、いらなくなったのであちこちからもらって、これも遊び道具になっていた。有線放送と呼ばれていた。(今のUSENとは無関係)
祖母の店は磁石式といってハンドルが右側に付いているやつ。今も鉄道関係で見かける事がある。
多くの家にあった電話機は、ダイヤルの代わりにスピーカーとボリュームが付いていた。受話器を上げれば交換台の人が出るので、番号を告げてつないでもらう方式だった。
フックボタンは赤いのがあって、通常、受話器をかけただけだとONにならないように深くなっていた。指で押さないとONにならない。非常時に使うと聞いている。
また、フックボタンの部分を内側からビスをゆるめて取り外し、クルッと回して付け直すと、電話機が壁掛けにできる仕組みになっていた。
お昼ごろには、そのスピーカーから放送が流れていたのを覚えている。
郵便局の配達員さんが店を休憩所に使っており、その放送を聞きながら休憩されていたのを覚えている。
畑の中にスピーカー(運動会などで設置されるアレだ)が立ててあり、そこからも放送が聞こえていた。
農村電話は、農協が運営していたと思う。すぐ近所の建物(とっくの昔に更地)に交換台があったようだがハッキリしない。機械が撤去された後は、集会所などとして利用されていたようだ。
いまも防災行政無線で朝昼夕方の時報とか、農協から、農薬を何アールあたりどのくらい使えとかそういった放送があるので、やっていることはあまり変わってないかも。(都会だと、うるさいって苦情が来そう。何しろ朝6時から音楽が鳴って起こされる)
町民センターに、その交換台が長年保存されていたけど、近年、役場とともに建て替わり、まだ行ってないのでわからないが捨てられてしまったのではないかと気になっている。
同じ交換台は門司の電気通信レトロ館にあって、実際に試す事ができる。
こういった経験から、特に電気通信には興味を深めていた。
電話線の電圧って何ボルトだろう、ベルを鳴らすにはどうしたらいいのだろう。このふたつの疑問を長年引きずっていた。
とりあえずコンセントに電話機のコードの先端をつっこんだらベルが鳴り出したので、これで鳴るんだとわかったが、危なくて使えない。
電話線の電圧を知ったのは、ふとした事がきっかけで、学校の放送室に転がっていた電電公社のパンフレットに書いてあった。小学校6年の時の大発見。(個人的な大発見)
標準48ボルトか・・・(規格では、たしか42~56Vの範囲)
だけどそんな電源は身近にない。考えてみれば、掛け算九九で、9ボルトの四角い電池を5本直列にすればいいじゃないかと。
それで近所の店へ、買いに走ったっけ。
電池スナップなんか近くで売ってないから、電線の先端をむいて端子に巻き付けたりセロハンテープでとめたり、いまいち頼りない結線方法を最初やっていた。
よく考えてみると、プラス・マイナスの端子を互い違いに組み合わせれば簡単に直列にできる。
両端の接続は仕方ないが、とにかく直列にして、自分の持っている電話機につないでみた。
それでもベルは鳴らない。通話はできる。通話だけなら48Vもいらない。数ボルトでも2台つないで話せる。
ベルを鳴らす回路に到達するまで相当な年月を要した。やっぱりトランスも特注になる。DC-DCコンバータも作ってみた。ニキシー管用に作ったものを流用して、電圧だけ変更してみたりとか。トランジスタでON/OFFする回路を組み合わせ、なんとかベルが鳴るところまで来た。
秋月のPBXキットも参考になったが、アンプICが妙に熱くなるのが気に入らなかった。それで独自に作ろうとしたっけ。
ごちゃごちゃ書きましたが・・・とりあえずここまで。
4歳か5歳だったかわからない。祖母の店(雑貨・食料品・たばこ)に冷蔵庫の修理に来ていた業者から、テスターを見せてもらって興味を持ったのは覚えている。赤・黒を接触させると針が振り切って、いま思えば、あれはゼロΩ調整だったんだなと。
叔父が電力会社に勤務していた事とか。
電気工事の屋内配線図を眺めて書き写したりとか。
オートメカニックとか自動車整備の雑誌を見て、特に電装系に興味をひかれて、その解説図ばかり見ていた覚えもある。あれは点火タイミングか何かの回路だったのか、仕組みが書かれていた。
身近にあった機械は、とにかく片っ端から分解して台無しにした。ラジオとかレコードプレーヤーとか、カメラや時計も。
そういった物は、使うのではなく、分解される為にあるのだと。
家具調テレビの後ろに潜り込んで、通気孔から中をのぞきこみ、中に人が入っていないか確かめようとした。
通気孔をほじくって割って広げ、その穴から鉛筆などを投げ込んでショートさせたりもした。そうすると電器屋さんが修理に来て、テレビの内部を堂々と見る事ができる。
落書き帳(白紙が綴じてある)を買ってもらい、思いつくままに回路図っぽいものを描いてみたり、あるいは発電所から自宅までの流れを延々と何ページにも渡って描いた。
電線2本がページの境界をまたぐ所では特に注意深く、切れ目がないように描いた。変なこだわりがあったものである。
まだ小学校に入る前だったと思うが、祖母に「叔父はどこ?」と聞いたら「きゅうでん」と答えた。その時の自分の脳内イメージは、「宮殿」で王様に仕える叔父の姿。意味不明。
この場合は九州電力のことで、略して九電。
新しくテレビを買った時に、添付されていた回路図を大事に保管して、何度も何度も広げて眺めて楽しい時間を過ごした。
保育所では、お遊戯の音楽には全く関心がなく、そのスピーカーの配線を追ってみることに執着していた。この線を追ってみると、別の部屋につながっていてレコードプレーヤーにつながっていた。ここに入ったらダメよと怒られただけ。
事務所の古い電話機(ダイヤル式)を3台もらって、電池をつないでお互いに通話できるようにして遊んでいた。ただ、ベルが鳴らないのは不満に思っており、この気持ちをその後何十年も引きずる事になる。
電話回線の電圧なんかも知らず、当時は書籍など身近になかった。適当に3ボルトをつないで試しただけ。
1979年に全国即時自動化といってダイヤル通話が全国でできるようになったけど、それまで自分の住んでいた町で使われていた農村電話、いらなくなったのであちこちからもらって、これも遊び道具になっていた。有線放送と呼ばれていた。(今のUSENとは無関係)
祖母の店は磁石式といってハンドルが右側に付いているやつ。今も鉄道関係で見かける事がある。
多くの家にあった電話機は、ダイヤルの代わりにスピーカーとボリュームが付いていた。受話器を上げれば交換台の人が出るので、番号を告げてつないでもらう方式だった。
フックボタンは赤いのがあって、通常、受話器をかけただけだとONにならないように深くなっていた。指で押さないとONにならない。非常時に使うと聞いている。
また、フックボタンの部分を内側からビスをゆるめて取り外し、クルッと回して付け直すと、電話機が壁掛けにできる仕組みになっていた。
お昼ごろには、そのスピーカーから放送が流れていたのを覚えている。
郵便局の配達員さんが店を休憩所に使っており、その放送を聞きながら休憩されていたのを覚えている。
畑の中にスピーカー(運動会などで設置されるアレだ)が立ててあり、そこからも放送が聞こえていた。
農村電話は、農協が運営していたと思う。すぐ近所の建物(とっくの昔に更地)に交換台があったようだがハッキリしない。機械が撤去された後は、集会所などとして利用されていたようだ。
いまも防災行政無線で朝昼夕方の時報とか、農協から、農薬を何アールあたりどのくらい使えとかそういった放送があるので、やっていることはあまり変わってないかも。(都会だと、うるさいって苦情が来そう。何しろ朝6時から音楽が鳴って起こされる)
町民センターに、その交換台が長年保存されていたけど、近年、役場とともに建て替わり、まだ行ってないのでわからないが捨てられてしまったのではないかと気になっている。
同じ交換台は門司の電気通信レトロ館にあって、実際に試す事ができる。
こういった経験から、特に電気通信には興味を深めていた。
電話線の電圧って何ボルトだろう、ベルを鳴らすにはどうしたらいいのだろう。このふたつの疑問を長年引きずっていた。
とりあえずコンセントに電話機のコードの先端をつっこんだらベルが鳴り出したので、これで鳴るんだとわかったが、危なくて使えない。
電話線の電圧を知ったのは、ふとした事がきっかけで、学校の放送室に転がっていた電電公社のパンフレットに書いてあった。小学校6年の時の大発見。(個人的な大発見)
標準48ボルトか・・・(規格では、たしか42~56Vの範囲)
だけどそんな電源は身近にない。考えてみれば、掛け算九九で、9ボルトの四角い電池を5本直列にすればいいじゃないかと。
それで近所の店へ、買いに走ったっけ。
電池スナップなんか近くで売ってないから、電線の先端をむいて端子に巻き付けたりセロハンテープでとめたり、いまいち頼りない結線方法を最初やっていた。
よく考えてみると、プラス・マイナスの端子を互い違いに組み合わせれば簡単に直列にできる。
両端の接続は仕方ないが、とにかく直列にして、自分の持っている電話機につないでみた。
それでもベルは鳴らない。通話はできる。通話だけなら48Vもいらない。数ボルトでも2台つないで話せる。
ベルを鳴らす回路に到達するまで相当な年月を要した。やっぱりトランスも特注になる。DC-DCコンバータも作ってみた。ニキシー管用に作ったものを流用して、電圧だけ変更してみたりとか。トランジスタでON/OFFする回路を組み合わせ、なんとかベルが鳴るところまで来た。
秋月のPBXキットも参考になったが、アンプICが妙に熱くなるのが気に入らなかった。それで独自に作ろうとしたっけ。
ごちゃごちゃ書きましたが・・・とりあえずここまで。