肉球認証
2023.01.11
冬になると指先がカサカサになって、もとい、肉球がカサカサになってスマホの認証が通りにくくなります。
何回か失敗すると、暗証番号を入れる画面になります。この代替手段があるから、まだマシかなと思います。
もし完全に肉球認証のみだったら、どうしようもなくなるじゃないかと。
何回か失敗すると、暗証番号を入れる画面になります。この代替手段があるから、まだマシかなと思います。
もし完全に肉球認証のみだったら、どうしようもなくなるじゃないかと。
専門学校
2023.01.05
工業高校を卒業したらどうするか、就職するかは決めかねていて、どうしたもんだろうなと、当時悩んだものでした。
周囲の同級生から、就職どこにするか決まった?なんて聞かれたりして、余計にあせりました。みんな進んでるんだ。自分なにも決めてない。あせるばかり。
大学も一応考えましたが、成績表が現実を教えてくれました。
工業高校の実習助手の道もあるよ?と先生から教えてもらったりもしました。それも悪くないなと一時考えました。
いずれにしても、すぐ就職することは考えられませんでした。
専門学校だと無試験(書類選考)か、有っても面接ぐらいで行けるので楽勝だなと。その2年か3年の間に就職を考えようと。
いろんな学校のパンフレットを取り寄せましたけど、あとで大変なことになりました。大変というのは、それぞれの学校からセールス電話がかかってきて、その対応に追われたわけです。
パンフレットだけでなく、学校紹介のビデオテープを送ってきたところもありました。
コンピューターや電子工学以外にも、なぜかパイロットの学校もあり、学校名は忘れたけど、とにかく無料だとか。国の関係機関なので無料でできるそうです。もう忘れましたけど、とにかく無料でパイロットになれるという夢のような学校でした。(現実は甘くないでしょうけどね)
間違ってそこに行っていたら、また違った人生を歩んでいたかもしれません。やっぱり落ちこぼれていたかも。
京都コンピュータ学院などのパンフレットも見ましたけど、よそで暮らす勇気がなかった。知らない土地にひとりで行くなんて。
最終的に、県内の専門学校に入学を決めたわけです。
その半年ぐらい前、無線部の活動で長崎市内での試合を撮影に行った事があり、当時は陸上競技場があって、そこに立った時に何となく、この土地で暮らす日が来るような気がすると思ったのでした。まさかそれが現実になろうとは。
10名前後の下宿屋に入り、最初は2人しかいなくて徐々に仲間が入って増えてきました。
たまたま自分の部屋を開けっぱなしにしていたら、廊下を通りがかったヤツが私の部屋のパソコン(MZ-2000)を見て、パソコンに興味あるの?俺も!ってな具合で、彼とは長いつきあいが始まりました。
自分は3年コースの学科に入ったけれど、なんと、5人しかおらず、まずは他科と一緒に授業を受ける事になりました。3年目だけが特別コースになるらしい。
2年目に希望を聞かれて、最初の5人の同期はいなくなったし、システム工学科として2年で卒業する道を選びました。
当時は汎用機のプログラマを養成する時代でした。メインフレームってやつです。
COBOLのバッチ処理とか。全然COOLじゃないCOBOLのプログラミングを、超遅いACOS-250で実習していました。
そのほか、アセンブラとしてはCASL(当時の情報処理技術者試験に出ていた)を習ったり、あとはC言語の講座もありました。
ただ、全般的にたるんだ学校だったと思います。先生たちもやる気がなかったんでしょうね。放棄して寝る先生とか、みんなとおしゃべりに夢中になる先生もいました。なんてひどい所に来たのだと。
1年で辞めてしまう人たちもいました。
こんな状況では、あとは自分の頑張りだけですよ。自分も含めて、気合の入った5人がグループとなり、いろんな事に挑戦していきました。
ソフトの学校なのに自分だけハードウェアを卒業研究のテーマに選んだりして・・・それで作ったのがZ80のLED電光板付きのポータブルマイコン(現存)。
2年間は当時は長く感じた。いまの2年間とは感覚が違う。もう戻れないけど。
周囲の同級生から、就職どこにするか決まった?なんて聞かれたりして、余計にあせりました。みんな進んでるんだ。自分なにも決めてない。あせるばかり。
大学も一応考えましたが、成績表が現実を教えてくれました。
工業高校の実習助手の道もあるよ?と先生から教えてもらったりもしました。それも悪くないなと一時考えました。
いずれにしても、すぐ就職することは考えられませんでした。
専門学校だと無試験(書類選考)か、有っても面接ぐらいで行けるので楽勝だなと。その2年か3年の間に就職を考えようと。
いろんな学校のパンフレットを取り寄せましたけど、あとで大変なことになりました。大変というのは、それぞれの学校からセールス電話がかかってきて、その対応に追われたわけです。
パンフレットだけでなく、学校紹介のビデオテープを送ってきたところもありました。
コンピューターや電子工学以外にも、なぜかパイロットの学校もあり、学校名は忘れたけど、とにかく無料だとか。国の関係機関なので無料でできるそうです。もう忘れましたけど、とにかく無料でパイロットになれるという夢のような学校でした。(現実は甘くないでしょうけどね)
間違ってそこに行っていたら、また違った人生を歩んでいたかもしれません。やっぱり落ちこぼれていたかも。
京都コンピュータ学院などのパンフレットも見ましたけど、よそで暮らす勇気がなかった。知らない土地にひとりで行くなんて。
最終的に、県内の専門学校に入学を決めたわけです。
その半年ぐらい前、無線部の活動で長崎市内での試合を撮影に行った事があり、当時は陸上競技場があって、そこに立った時に何となく、この土地で暮らす日が来るような気がすると思ったのでした。まさかそれが現実になろうとは。
10名前後の下宿屋に入り、最初は2人しかいなくて徐々に仲間が入って増えてきました。
たまたま自分の部屋を開けっぱなしにしていたら、廊下を通りがかったヤツが私の部屋のパソコン(MZ-2000)を見て、パソコンに興味あるの?俺も!ってな具合で、彼とは長いつきあいが始まりました。
自分は3年コースの学科に入ったけれど、なんと、5人しかおらず、まずは他科と一緒に授業を受ける事になりました。3年目だけが特別コースになるらしい。
2年目に希望を聞かれて、最初の5人の同期はいなくなったし、システム工学科として2年で卒業する道を選びました。
当時は汎用機のプログラマを養成する時代でした。メインフレームってやつです。
COBOLのバッチ処理とか。全然COOLじゃないCOBOLのプログラミングを、超遅いACOS-250で実習していました。
そのほか、アセンブラとしてはCASL(当時の情報処理技術者試験に出ていた)を習ったり、あとはC言語の講座もありました。
ただ、全般的にたるんだ学校だったと思います。先生たちもやる気がなかったんでしょうね。放棄して寝る先生とか、みんなとおしゃべりに夢中になる先生もいました。なんてひどい所に来たのだと。
1年で辞めてしまう人たちもいました。
こんな状況では、あとは自分の頑張りだけですよ。自分も含めて、気合の入った5人がグループとなり、いろんな事に挑戦していきました。
ソフトの学校なのに自分だけハードウェアを卒業研究のテーマに選んだりして・・・それで作ったのがZ80のLED電光板付きのポータブルマイコン(現存)。
2年間は当時は長く感じた。いまの2年間とは感覚が違う。もう戻れないけど。
製図の時間に紙を用意しないとは何事だ
2023.01.05
工業高校の話の続き。
製図の実習が有ったのだが、その初回の話。
クラスのみんな、とりあえず製図室に入って席に座って待っている。そこへ先生がやってきて開口一番、
「製図の時間に紙を用意しないとは何事だ」
みんなキョトン、
誰かが「事前に聞いていません」
先生は、「製図だから紙が必要に決まっている。お前らは、なんでわからないのだ」とか言う。(当時の細かい話は失念)
また誰かが「製図の仕方の講義があるのだと思っていました」
先生、「それはお前が勝手にそう思っただけだろ」という。
とにかく、
「納得できない、という者は外に出て並びなさい」
ちょうど中庭みたいになっていて、納得できない連中が何人か並んだ。先生に立ち向かっていく。
ところが先生は柔道の黒帯で体格が良い。ガッチリした体型で、いつも胸をはって、ふんぞり返って歩いている。武士は歯を見せて笑うものではない、とか色々言う。何を気取っているんだ(笑)
見た感じ、ダルマに似ているので密かにダルマと名付けられた。
(ほかに、たけし軍団のダンカンに似ているので私がダンカンと名付けた先生もいる。おっといけない。まだ現役なので、お前の卒業取り消すぞと言われたら困る)
先生に立ち向かう連中。無謀にも。
次々に張り倒されていく。見ていて、かなうわけがないと思う。
理不尽な事を言って、反抗するヤツは絶対に俺にはかなわないんだということを「一番最初に」刻み込むんだろうな。
立ち向かった連中以外は、みんなあわてて購買部に紙を買いに並んだ。
いつも休み時間にしか買物に来る者がいないから、何事かと購買部もあせったと思う。
あのダルマ、のちに某進学校の校長になっていた。やっぱり当時と同じような事を言っていた模様。
「それがお前の限界か!」 と。 (そんな事を言っていたら、きりがないじゃない)
製図の実習が有ったのだが、その初回の話。
クラスのみんな、とりあえず製図室に入って席に座って待っている。そこへ先生がやってきて開口一番、
「製図の時間に紙を用意しないとは何事だ」
みんなキョトン、
誰かが「事前に聞いていません」
先生は、「製図だから紙が必要に決まっている。お前らは、なんでわからないのだ」とか言う。(当時の細かい話は失念)
また誰かが「製図の仕方の講義があるのだと思っていました」
先生、「それはお前が勝手にそう思っただけだろ」という。
とにかく、
「納得できない、という者は外に出て並びなさい」
ちょうど中庭みたいになっていて、納得できない連中が何人か並んだ。先生に立ち向かっていく。
ところが先生は柔道の黒帯で体格が良い。ガッチリした体型で、いつも胸をはって、ふんぞり返って歩いている。武士は歯を見せて笑うものではない、とか色々言う。何を気取っているんだ(笑)
見た感じ、ダルマに似ているので密かにダルマと名付けられた。
(ほかに、たけし軍団のダンカンに似ているので私がダンカンと名付けた先生もいる。おっといけない。まだ現役なので、お前の卒業取り消すぞと言われたら困る)
先生に立ち向かう連中。無謀にも。
次々に張り倒されていく。見ていて、かなうわけがないと思う。
理不尽な事を言って、反抗するヤツは絶対に俺にはかなわないんだということを「一番最初に」刻み込むんだろうな。
立ち向かった連中以外は、みんなあわてて購買部に紙を買いに並んだ。
いつも休み時間にしか買物に来る者がいないから、何事かと購買部もあせったと思う。
あのダルマ、のちに某進学校の校長になっていた。やっぱり当時と同じような事を言っていた模様。
「それがお前の限界か!」 と。 (そんな事を言っていたら、きりがないじゃない)
工業高校の現実
2023.01.05
電気関係に興味があって、趣味で電子工作とかやってるから、みんなも工業高校を選んだんだろう、と私はそのように確信していました。ところが現実は違った、という話を以前書きました。
工業高校に入れば、思いっきり趣味にハマれるという妄想が当時の私には有りました。
ところが当時は軍隊みたいなもので、刑務所だと言うヤツもいましたが、坊主頭に厳しい校則にそのほか色々・・・
勉強についていけなくて、私は落ちこぼれてしまったのです。
親から「好きな分野でしょう、どうしてできないの」と言われても、単に勉強についていけなくて落第寸前だった時もありました。
学期末ごとに成績不振者は親を学校に呼ばれて、お説教を食らいました。
夏休みに呼び出されて補習を受けたこともあります。
私は普段の行いだけは真面目だったので、あの鬼のような生徒指導の先生が(珍しく)ニコニコして、「彼は真面目で良い。非行とか悪いことをしない。だが勉強がもうちょっとできれば言う事ないんだけどな~~~ハッハッハ」と、うちの親の前でおっしゃったのは覚えています。
ところで工業高校は、女子がいませんでした。いないというか少数派。同じ科の同じ学年、80人中4人でした。自分の年代は。
機械、電子、建築の3科があり、機械だけは女子を募集していませんでした。(当時)
体力的に厳しいからという話を聞きましたけど、旋盤工など活躍している女子も世の中にいますので、必ずしも向いていないことはないと思います。
上の学年だと建築に女子が一人のクラスがありました。男に囲まれて大変だったでしょうけど、かえってみんなから優しく、大事にされていたのではないかと思います。
情報技術科が我々の後輩の年代から始まり、一気に女子が20名近く入ってきた。珍しいことでした。
とにかく我々のクラスは男ばっかり40名で(女子はもうひとつのクラスにいた)、夏なんか当時はエアコンが無いから暑苦しくてたまらない。普賢岳の噴火が始まった後にエアコンが付いた。その頃には我々は卒業した後だった。
体育祭で電子科が大敗した事で、応援団長が「みんな坊主にしろ!」(五厘と言っていた)
なんだそりゃ勝手に決めるなよと文句言いながら、結局みんな五厘にされて、教室に入ってきた先生がビックリ、
「なんだ、坊さんの学校かと思ったぞ!!」
無理もありません。一休さんみたいな奴らが40人も並んでいて、さぞかし壮観だったことでしょう。
工業高校に入れば、思いっきり趣味にハマれるという妄想が当時の私には有りました。
ところが当時は軍隊みたいなもので、刑務所だと言うヤツもいましたが、坊主頭に厳しい校則にそのほか色々・・・
勉強についていけなくて、私は落ちこぼれてしまったのです。
親から「好きな分野でしょう、どうしてできないの」と言われても、単に勉強についていけなくて落第寸前だった時もありました。
学期末ごとに成績不振者は親を学校に呼ばれて、お説教を食らいました。
夏休みに呼び出されて補習を受けたこともあります。
私は普段の行いだけは真面目だったので、あの鬼のような生徒指導の先生が(珍しく)ニコニコして、「彼は真面目で良い。非行とか悪いことをしない。だが勉強がもうちょっとできれば言う事ないんだけどな~~~ハッハッハ」と、うちの親の前でおっしゃったのは覚えています。
ところで工業高校は、女子がいませんでした。いないというか少数派。同じ科の同じ学年、80人中4人でした。自分の年代は。
機械、電子、建築の3科があり、機械だけは女子を募集していませんでした。(当時)
体力的に厳しいからという話を聞きましたけど、旋盤工など活躍している女子も世の中にいますので、必ずしも向いていないことはないと思います。
上の学年だと建築に女子が一人のクラスがありました。男に囲まれて大変だったでしょうけど、かえってみんなから優しく、大事にされていたのではないかと思います。
情報技術科が我々の後輩の年代から始まり、一気に女子が20名近く入ってきた。珍しいことでした。
とにかく我々のクラスは男ばっかり40名で(女子はもうひとつのクラスにいた)、夏なんか当時はエアコンが無いから暑苦しくてたまらない。普賢岳の噴火が始まった後にエアコンが付いた。その頃には我々は卒業した後だった。
体育祭で電子科が大敗した事で、応援団長が「みんな坊主にしろ!」(五厘と言っていた)
なんだそりゃ勝手に決めるなよと文句言いながら、結局みんな五厘にされて、教室に入ってきた先生がビックリ、
「なんだ、坊さんの学校かと思ったぞ!!」
無理もありません。一休さんみたいな奴らが40人も並んでいて、さぞかし壮観だったことでしょう。
餅の代わりに赤飯
2023.01.03
年末から年始にかけて救急車のサイレンが何度も聞こえてきたけど、ひょっとしたら餅を喉につまらせて・・・なのかな?と想像していました。確かめようがないのでわかりませんけど。
実家のほうでは毎年の年末に餅をついて、たくさん作るのが恒例行事でした。
でも、そんなに食べきれないぐらい作ってどうするんだと、当時から疑問に思っていました。何となく続けている恒例行事に疑問を投げかけてみます。
保存しておくとカビがはえて、その部分だけ切って捨ててきれいな所を食べたりしていました。
しかし餅ばっかり食べるわけにはいきませんし、実際、続けて食べると飽きました。
米のご飯と餅を一緒に食べるのもおかしいので、どちらかになります。
細かく切って油で揚げたりとか工夫もしたけれど、そもそもたくさん作るから始末に困るわけで、捨てるなんてとんでもないので食べる工夫をしてきたわけですが、そもそも余るほど作ってる時点で粗末にしていないかと。
餅を食べるか食べないかは自由ですが、餅は思い切って止めてしまって、その代わりに赤飯を食べたらどうでしょう。同じもち米を使いますし・・・餅に比べたら、喉につまらせる可能性は低いです。
実家のほうでは毎年の年末に餅をついて、たくさん作るのが恒例行事でした。
でも、そんなに食べきれないぐらい作ってどうするんだと、当時から疑問に思っていました。何となく続けている恒例行事に疑問を投げかけてみます。
保存しておくとカビがはえて、その部分だけ切って捨ててきれいな所を食べたりしていました。
しかし餅ばっかり食べるわけにはいきませんし、実際、続けて食べると飽きました。
米のご飯と餅を一緒に食べるのもおかしいので、どちらかになります。
細かく切って油で揚げたりとか工夫もしたけれど、そもそもたくさん作るから始末に困るわけで、捨てるなんてとんでもないので食べる工夫をしてきたわけですが、そもそも余るほど作ってる時点で粗末にしていないかと。
餅を食べるか食べないかは自由ですが、餅は思い切って止めてしまって、その代わりに赤飯を食べたらどうでしょう。同じもち米を使いますし・・・餅に比べたら、喉につまらせる可能性は低いです。