平成5年頃
2023.01.05
あの当時は一番盛り上がった、ピークだったと思う。最盛期。

無線には縁がないと思っていた人からも、教えてくれとか試験の参考書貸してとか言われた。マイナーな趣味だと個人的に勝手に思っていたのに。これだけ一般に浸透しているのかと思った。

会社のお姉さんたちも車に無線機を積んだりして、通勤途中に会社の仲間と喋ったりとか。

当時、私は1回目の自動車学校に挫折して、会社就職後、2回目の自動車学校に(無銭だからローンで)しぶしぶ通っていた。仮免も卒業検定も何度も繰り返し、そのたびに欠勤したのでますます無銭に拍車がかかり、なんとか半年かかってギリギリ卒業。
その送迎バスを運転されていた教官からも、無線に興味があるから色々教えて欲しいという話。参考書を差し上げました。

こんなふうに、周囲のみんなが無線をやっていたり新たに始めようという時代でした。

それが平成7~8年頃になると、PHSとか携帯が入手しやすくなり、そちらに移行していく方が増えていったと思います。

私はどちらかというと平成5年の段階で、パソコン通信に強い興味を持っていて、自らホスト局の運営をしていたぐらい。ずいぶんお金をつぎ込み、やっぱり無銭になりました。
平成10年頃にはパソコン通信は下火となり、インターネットへ移行していきました。ホスト局の電源を落としたのも、その頃だったと思います。

電源を落とした後も、回線を解約せずにそのままにしておいたら、たまに着信音が聞こえる事がありました。ISDNターミナルアダプタのリレーがカチカチ鳴ったりして。
わざわざ接続して来られた方には申し訳ない気持ちがありました。

なんだか違う話になりました。結局、無銭というのが共通点だったと思います。
製図の時間に紙を用意しないとは何事だ
2023.01.05
工業高校の話の続き。

製図の実習が有ったのだが、その初回の話。

クラスのみんな、とりあえず製図室に入って席に座って待っている。そこへ先生がやってきて開口一番、
「製図の時間に紙を用意しないとは何事だ」

みんなキョトン、

誰かが「事前に聞いていません」

先生は、「製図だから紙が必要に決まっている。お前らは、なんでわからないのだ」とか言う。(当時の細かい話は失念)

また誰かが「製図の仕方の講義があるのだと思っていました」

先生、「それはお前が勝手にそう思っただけだろ」という。

とにかく、
「納得できない、という者は外に出て並びなさい」

ちょうど中庭みたいになっていて、納得できない連中が何人か並んだ。先生に立ち向かっていく。

ところが先生は柔道の黒帯で体格が良い。ガッチリした体型で、いつも胸をはって、ふんぞり返って歩いている。武士は歯を見せて笑うものではない、とか色々言う。何を気取っているんだ(笑)

見た感じ、ダルマに似ているので密かにダルマと名付けられた。
(ほかに、たけし軍団のダンカンに似ているので私がダンカンと名付けた先生もいる。おっといけない。まだ現役なので、お前の卒業取り消すぞと言われたら困る)

先生に立ち向かう連中。無謀にも。
次々に張り倒されていく。見ていて、かなうわけがないと思う。

理不尽な事を言って、反抗するヤツは絶対に俺にはかなわないんだということを「一番最初に」刻み込むんだろうな。

立ち向かった連中以外は、みんなあわてて購買部に紙を買いに並んだ。
いつも休み時間にしか買物に来る者がいないから、何事かと購買部もあせったと思う。

あのダルマ、のちに某進学校の校長になっていた。やっぱり当時と同じような事を言っていた模様。

「それがお前の限界か!」 と。 (そんな事を言っていたら、きりがないじゃない)
工業高校の現実
2023.01.05
電気関係に興味があって、趣味で電子工作とかやってるから、みんなも工業高校を選んだんだろう、と私はそのように確信していました。ところが現実は違った、という話を以前書きました。

工業高校に入れば、思いっきり趣味にハマれるという妄想が当時の私には有りました。

ところが当時は軍隊みたいなもので、刑務所だと言うヤツもいましたが、坊主頭に厳しい校則にそのほか色々・・・

勉強についていけなくて、私は落ちこぼれてしまったのです。
親から「好きな分野でしょう、どうしてできないの」と言われても、単に勉強についていけなくて落第寸前だった時もありました。
学期末ごとに成績不振者は親を学校に呼ばれて、お説教を食らいました。
夏休みに呼び出されて補習を受けたこともあります。

私は普段の行いだけは真面目だったので、あの鬼のような生徒指導の先生が(珍しく)ニコニコして、「彼は真面目で良い。非行とか悪いことをしない。だが勉強がもうちょっとできれば言う事ないんだけどな~~~ハッハッハ」と、うちの親の前でおっしゃったのは覚えています。

ところで工業高校は、女子がいませんでした。いないというか少数派。同じ科の同じ学年、80人中4人でした。自分の年代は。

機械、電子、建築の3科があり、機械だけは女子を募集していませんでした。(当時)
体力的に厳しいからという話を聞きましたけど、旋盤工など活躍している女子も世の中にいますので、必ずしも向いていないことはないと思います。

上の学年だと建築に女子が一人のクラスがありました。男に囲まれて大変だったでしょうけど、かえってみんなから優しく、大事にされていたのではないかと思います。

情報技術科が我々の後輩の年代から始まり、一気に女子が20名近く入ってきた。珍しいことでした。

とにかく我々のクラスは男ばっかり40名で(女子はもうひとつのクラスにいた)、夏なんか当時はエアコンが無いから暑苦しくてたまらない。普賢岳の噴火が始まった後にエアコンが付いた。その頃には我々は卒業した後だった。

体育祭で電子科が大敗した事で、応援団長が「みんな坊主にしろ!」(五厘と言っていた)

なんだそりゃ勝手に決めるなよと文句言いながら、結局みんな五厘にされて、教室に入ってきた先生がビックリ、

「なんだ、坊さんの学校かと思ったぞ!!」

無理もありません。一休さんみたいな奴らが40人も並んでいて、さぞかし壮観だったことでしょう。

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