秋月電子の昔話(続)
2024.04.13
■支払方法

三時からの銀行、と書いたが、とにかく現金商売だった。
なんといっても現金は強い。

いまの時代だと現金が必要なのは【政治家】ぐらいか、と皮肉を言ったりする。とにかく日常で現金を使ったり持ち歩かなくなった。小銭も持ってないから自販機でジュースを買わない。健康にも良いし無駄金を使わなくなった。
現金を使うのは病院と床屋ぐらいか。薬局はキャッシュレス対応している。

以前、通販は現金書留で送金していたと思う。
現金書留の郵便料金は金額によっても変わるが、小銭が入って重くなると料金が上がるからできるだけ紙幣だけで済むように商品選択で調整して、きりの良い金額になるようにしていた。

その頃の現金書留の送り先は東京都世田谷区瀬田・・・で、秋葉原の実店舗とは違っていた。これはたぶん社長の自宅じゃないかと思う。

そのうちに、銀行振込もできるようになった。(何年頃だったか忘れたが)
FAXで見積依頼(在庫確認)を送り、返信があってから銀行振込をしていた。

クレジットで払えるようになったのは、つい、この前のことのような気がする。実際は10年以上前か。未確認

■Webサイト

最初のWebサイトは手作り感あふれる印象だった。確かどこかに保存していると思うけど、なかなか見つからない。
記憶では、通販部のおば・・・げふんげふん・・・お姉さん達の集合写真も載っていた。しかも「面会はご遠慮ください」とも書いてあったと思う。
いまの時代の感覚だと、よくそんなの載せるなあという意見もあるかも。
小学校や中学校の学校だよりに生徒の写真が載っていても、みんなボカシで誰が誰だかサッパリわからん、これが普通という時代。(わからないけど、ネット配布の物はボカシで、生徒に配っている物はボカシがないのかも)

■販売コード(通販コード)

アナログ時代?は、そんなものは無かった。
「かわら版」(手書き+切り貼り+ワープロ)に載っている商品名を「忠実に」注文書へ書き写していた。時に長ったらしい商品名もあった。

でも、あの頃の「かわら版」は大好きだった。なんというか、味わいがあった。この感覚を忘れてはいけないなあと思う。1冊だけは保存してある。何度も何度も読み返していた。

いまの「かわら版」はキレイでカラーで整っているが、かえって面白みがなく、すぐゴミ箱へ放り込んでしまう。(老眼のせいで細かい字を拒否しているのも原因)

コードがついてから、注文時には便利になった。部品表にも書いておいて、それを見ながら注文する。
ところが、今回見直しとなり、1から始まる6桁の数字に変わり・・・従来のコードたとえばP-何番とかでも通るだろうけど、結局新しいコードを調べて部品表を全面的に書き換える羽目に・・・

あと、「ブランケットオーダー」が好きだな。予めテキストファイルを作っておいて、そこへコピペする。
但し、同じ部品をあっちで3個、こっちで2個、合計5個というのができないので要注意だ。
実際同じ部品をメイン基板で何個、サブ基板で何個という感じで使うから、これは予め整理して数を合計してから入力する必要がある。
引用:「同じ商品(販売コード)をマージされる場合はお手数ですが、合計して1行にまとめて下さい。」と書いてある。

■10個買うと割引

これは最近見かけなくなったな。
以前は、10個以上の単価があった。たとえばボリュームを10個買うと1個分まけてくれる。

■たまには間違いも

システム化が進んだが、結局、人間の手に頼っているところで間違いが生じる。
注文していない物が入っていたことがあった。
申し出たら、きちんと対応して頂いた。


長くなったのでまた。
秋月電子の昔話
2024.04.12
昔と言っても私の知っている範囲の昔。

■実店舗

秋葉原の実店舗に初めて行ったのは1997年頃だったか。
最初からここを目指したのではなく、会社の用事で部品を探しに来た。(出張時)
最初は若松通商に行って、ここで聞くのも失礼だったかもしれないが、秋月の場所を遠慮なく聞いてみたりしたっけ。普通に教えてくれました。
今のようにスマホで地図とかナビとか無い時代。
メイドさん萌え萌えもなかった、と思う。

その頃は、某宗教のビラまき隊がいたし、通りは人があふれていた。
会社の仲間と3人で行動していたが、はぐれてしまって、人が多いもんだから近くにいたって全然わからん。携帯で連絡をとりながら再会した。

ここが!あの!!秋月電子!!! と大興奮したかどうか記憶にないが、ボーッとなって夢か現実か最初わからなかったような気がする。

行く前は買うものがいっぱいあるなあ!と思っていたけど、いざ店に来てみると、何を選んで良いのやら、
しかも人がギッシリで、(真夏に来た時)汗臭かったという印象。
いまの新しい店舗じゃなくて、改装前の狭い店だった頃。

あっ、そうだ、会社に抵抗をE12系列か24系列で全部揃えたくて、この機会に買おうと。
当時カーボン抵抗は通販では取り扱っていなくて、でも、実店舗には有った。
かつては抵抗やコンデンサは扱っていなかったんだよな。商品の傾向としてはICとかキット、ジャンクが多かった。
陳列棚には袋に100個入りの抵抗がたくさんあった。
平らなザルが置いてあって、系列を思い出しながらそれに放り込んでいった。
こんなにゴチャゴチャたくさん買って、レジの店員さん面倒じゃないかなと気になったりした。
当時は茶色の紙袋に書いて計算していたと思う。


■通販

●送料
妙なところに注目するが、送料は昔から600円だった。昔というのは曖昧だが、たとえば80年代の雑誌広告を見ると〒600と書いてある。

「初歩のラジオ」のページごとに1行で読者の投稿が書いてあったけど、その中に(この600円は高い)「差額を返せ」と書かれていたのを覚えている。そう、当時600円というのは(送料の感覚としては)高いほうだった。

距離や梱包の大きさにもよるが、安く送る手段もないわけではないけれど、秋月としては一律600円でおそらく送料の計算の手間を省いていたのかな、と勝手に想像します。

●取扱商品
今はほとんどなくなってしまったが、いわゆるジャンク、これが秋月の楽しみだったと思う。

色々珍しい物が売られていて、これ何だろう、何に使う物だろう、これがこの値段で、面白そう、・・・とにかく楽しみだった。そして、次々に色々買ってしまったのであった。

現代では電子機器の製造業が日本から出ていって少なくなったし、管理がうるさくなったんだろうな、工場から出る廃品はあまりないんだろうね。有っても、知らないところで勝手に出回らないようにつぶしてから捨てるという事なのだろうと思う。

自分も昔つとめていた会社で、棚卸の時に余剰在庫を捨てているのを見ていた。売れ残りの製品や、こんな新品の部品が大量に、なんてもったいない、と信じられなかった。会社にしてみれば課税されるからサッサと捨てたい物だったろう。

電線なんか束のままポンポン投げてあった。それらを見て、ちくしょうと思った。

実験で使うため(電源装置と基板をつなぐ)AWG20の赤と黒を30cmばかり分けてもらうのもいちいち書類を書いて上司に回して、ずいぶんたってから資材課から届く、というか・・・私は下っ端だったからか「取りに来い」とか内線電話で言われて、行ってみると仰々しく出庫伝票の付いたビニール袋に短い電線2本が入っている。(どうせ袋とか伝票は捨てるのに)

その帰りに、「ついでに」これを誰々さんに、係長に渡しておいて、って書類などを押し付けられたりして、お前は伝書鳩だとか言われて・・・あれこれ(非常に)面倒くさい事を思い出していた。
色々うるさいくせに結局こんな粗末にしてポンポン捨てるのかと。

まあとにかく、棚卸で捨ててあった部品を拾ってきていじって遊んだりしたが、結局持て余して捨てたりしていた。
そういえば80年代の雑誌を見ると、千石さんが「余剰在庫を買い取ります」といった広告を出していた。

もと秋月のアルバイト店員さんだった方のインタビュー(新聞記事)があり、当時はICなど買い取っていたという。
これは私がある電子部品の商社の営業マンから直接聞いた話だが、秋月は「三時からの銀行」と呼ばれているという。
銀行の窓口は三時で閉まってしまうが、会社を経営していると何らかの理由で現金が必要になる時がある。そんな時に余剰品を持ち込んで、買い取ってもらって現金に換えるというわけ。


長くなったので続きは改めて。
短波と短波ラジオ
2024.04.09
子どもの頃、短波というのは不思議な存在だった。

普通のラジカセにはAM/FMしかついてない。短波(SW)は珍しかったと思う。(そうでもないか、人によって違う)

ちなみに同級生のイニシャルがSWだったヤツを短波と呼んでみたこともある。

町のごみ収集のオジサン(同級生の祖父)と知り合いになり、集積場に連れて行ってもらって、粗大ごみで集めたラジカセやらテレビやらたくさんあって選びたい放題だった。

そこでもらったのはナショナルのRQ448(MAC FF)というラジカセで短波がついていた。全く壊れていなくて何で捨てられたのか、買い替えで捨てられたんだろうと思う。

ご参考
ttp://plaza.harmonix.ne.jp/~ita/1123/RQ448.htm

これは遊べるラジカセで、ワイヤレスマイクは付いていたし、短波も受信できた。

その電波の性質上、夜になるとよく放送が入る。

ダイヤルを端からソーッと回しながら耳をすますと、知らない外国語やら不思議な電子音やらが聞こえてきた。
5MHzや10MHzでは一定の音を繰り返す、いわゆる標準電波(日本ではJJYだった)が受信できた。これを時計合わせに使ったりしたものだった。この電波を利用して時計を正確に動かせないか、という発想は当時あったが、どうやって実現するか、というところで前進できなかった。
電子工作のコンテスト(電波新聞社)の出品に、時報で時計を0秒に合わせる仕組みの作品があって興味をもった。これが応用できないかと考えていた。

モールス信号や、あるいは7MHzあたりでモガモガ声が聞こえていた。これはアマチュア無線で、SSBだから普通のラジオで聴くとモガモガになる。
共立電子からBFOキットを買って、うまく調整してやるとクリアに聴こえるようになった。
それ以前はなんとかしてモガモガ状態で交信を聞き取ってやろうというチャレンジをしていた。
交信の内容を書くのは良くないが、もう何十年も経過しているので支障ないと思う。確か自動車が故障して、無線仲間から修理方法のアドバイスをもらうようなやりとりだった。

夜な夜なラジオのダイヤルを回したり、ラジオの製作に載っていたBCLの周波数情報を見ながら周波数を合わせて放送を聞こうとした。

だけど周波数直読ではなく、大雑把な目盛りだからなかなか思ったように合わせられない。受信できない。
昔「何メーターバンド」といって波長で周波数帯を示していて、結構大雑把なものだった。

いまでこそ、周波数をテンキーから打ち込むラジオを持っているが、当時はそんなもの夢だった。ただ、ラジオの製作の(BCL記事の)筆者は持っていて、記事にたびたび登場するそのラジオの写真を見ながら、あこがれていたのである。

ラジオたんぱで株式を聴いたり、競馬とか、もう完全に大人の世界でサッパリわからなかった。こち亀の両さんが短波ラジオで競馬中継を聴いているのは漫画で見たことがあるだろう。

ラジカセのおまけの短波だから周波数は確か12MHzあたりまでしか無く、それ以上の周波数を聴いてみたいと思ってもできなかった。

ところで、短波ラジオの自作もした。

ラジオの製作の記事だったが、非常に簡単な回路で短波が受信できるというのでビビッと来て部品を注文して組み立てた。
コイルは単2電池に紙を巻き、そこへエナメル線を10回巻いて作る。ほどけないようにテープを貼ったり接着剤を塗って固める。

トランジスタ2石だったと思うけど、初段のバイアス抵抗は5.1MΩというのはなぜか覚えている。バリコンは普通に見かけるAMの単連でよかった。

クリスタルイヤホンで聴くんだったっけ。

さっきのラジカセよりもはるかに大雑把な代物だったが、これで短波を聴くのはかえって新鮮だった。

ケースは、ナッツボンの空き缶だったと思う。いまは袋に入って売られているが、当時は缶入りが有り、フタは半透明のプラスチックだった。
フタはポリバリコンを取り付けるのにちょうどよかった。

シールド効果を期待して金属の入れ物を使ったのではなく、たまたま転がっていたものをテキトーに使っていた、あの頃。

そのほか、意外な方法で短波を受信したこともある。

当時よくテレビが捨てられていて、拾ってきては部品を外して集めていたが、チューナーユニットは使い道がなかった。
見た感じ、何か使えそうにも見えるが、結局は何も使い道がなかった。
アンテナ入力と、電源をどこかにつなげば出力が出るのだろう、ぐらいしか当時はわからなかった。

それでまあ、適当に電池をつなぎ、アンテナをつないで、その出力をFMラジオにつないでみたと思う。このあたりは記憶がハッキリしないけど、確かに実験をした。
あるいは低周波のアンプにつないだかもしれない。アンプといったけど、じつはラジカセのマイク入力につないで、そのスピーカーから聴いていただけという場合もあった。これがお手軽だった。

そうすると、どういうわけか「自由中国の声」(当時)の日本語放送が聞こえてきた。あの曲。(あの曲といってわかる人はわかる)

当時は原理がわからず、そして後日再現もできなかった。

たぶんだけど、原理的にはダイレクトコンバージョンみたいな事になっていたんじゃないかなと思う。
エッチングと基板 つづき
2024.04.09
中学生の頃に初めてプリント基板の製作キットを買った話を書いたが、それは何のためだったか。

確か2年生だったと思うが、学校のクラブ活動で工作部に入った。
ほとんどの人はプラモを組み立てていたが、自分はプラモも作ったけど、やっぱり電子工作をしてみたかった。
そこで、「技術」の教科書に載っていたラジオを作ろうとした。

最初に作りたい物や活動したい事の希望を書いて提出する紙があり、そこへ「ラジオを作る」と書いておいたら、顧問の先生から「ラジオなんか作ってどうすんだ、買えばいいだろ」という反応。

(顧問の先生は美術の教師)

そりゃそうですが先生・・・
「勉強の為」だと言えば相手は学校の先生だから納得してもらえたと思う。当時何と言ったかは忘れた。

それで実際に部品を買い集めて(当時は通販)作ったんだよな。だけどその時は鳴らなくて、あとで色々いじって直したと思うが、このあたりの記憶もない。作ったのは確か。

まあ、確かに実用性は無かった。

ケースに入れなくて基板むきだしだからゴミっぽくなる。むきだしでホコリをかぶるし、ホコリをかぶれば、なおさらゴミっぽくなる。
いまではそう思うけど、当時は通電して動作する部分にしか興味がなかった。

ケース加工もしなかったわけじゃないけど、よくある透明スチロールのケースにはんだごてでブスッとさして(くさい、と母から苦情)適当に穴を開けていた。

まともなドリルも持っていなかった頃だし、手回しのドリルで細い刃から折ってしまい、予定外に大きい穴をあけたりしていた。

あるいはカッターナイフの先端を突き立て、それをぐるぐる回すと皿もみのようにして穴があくので、この技を多用していた頃もあった。

当時ケースは透明スチロール製のものがたくさんあって、これは親父が町の健診に行った時に胃の発泡剤が入っていた箱がたくさん捨てられていたのでもらってきたらしい。
結構しっかりしていて、使い捨てにするにはもったいない箱だった。いまの時代だとエコとか言って紙箱になってるのかなと。
高校の実習と基板
2024.04.09
高校時代は「負帰還増幅回路」といってトランジスタ1石だったと思うが、それをプリント基板で組み立てて実際に通電し、特性を測定するという実習があった。

片面銅箔のベーク板があって、それを必要な寸法に切り出して、銅箔を良く磨く。実際どうやったか細かい事はあいまいな記憶だが、最初に穴位置をポンチで打ったと思う。
原稿を重ねて、穴位置にポンチを当てて軽く打っていく。強く打つと基板が割れてしまうぞと。

ドリル刃がずれなければ良いわけで、ちょっと凹めば十分。
みんな順番にボール盤を使って、穴あけした。

エッチング前に穴開けしたのか、後だったのかは、改めて考えてみると記憶が曖昧。

ハッキリ覚えているのは、
ドリルは銅箔面からだぞと。反対(ベーク)面からドリルを差し込むと銅箔を突き上げて(めくれて)しまうおそれがある、と先生に言われた。

そしてパターンはどうしたかというと、原稿を見ながらペンでインクを塗り重ねていった。ここでインクが薄いとエッチングで虫食いになるか、溶けてしまう。

自分は中学の頃すでに経験していたので、トントントン・・・とペン先を当ててインクを塗り重ねるテクを使っていた。すると周囲も真似し始めた。

名前を書け、というのでスペースに名前を書いたと思う。これも銅箔の文字として残る。エッチングで誰のかわからなくなるし、先生方も採点のために必要だっただろう。

この実習以前に、ブレッドボードで試作したような気もするけど、別の回路だったか。なんか接触の悪いブレッドボードで、配線ミスも最初は有ったが、思ったように動かなくて苦心したような印象が残っている。

それで出来上がったプリント基板に部品をはんだ付け。トランジスタに抵抗、コンデンサ。

実際に通電して、周波数特性なんかを取ったと思う。片対数?グラフ用紙を購買から買っておけよと事前に指示があった。いまの時代に対数グラフ用紙なんて売ってるんだろうか。Excelで済むか。(追記:いまでも売ってる)

グラフ用紙は1冊単位での購入が普通だが、そんなに使わないので無駄になる。学校の購買だと1枚から買えたと思う。あるいは教室で先生が配っていたか。記憶はハッキリしない。

入力はオシレータ(低周波発振器)で、つまみを回すと周波数を変えられるやつ。当然アナログ。あのツマミの内側はバリコンがつながってるんだよな。
出力側にオシロをつないで波形と電圧を見たような。確か電子電圧計だったような気もする。

こうして周波数を一定刻みに変えながら、その時の出力電圧をとってグラフにプロットしていくと、周波数特性のグラフができる。
いまの時代だと自動化されていそうな手順を当時はひとつひとつ手動で実施していた。
読み取り誤差や個人のクセによって数字はバラツキがあったりして、凸凹になったりする。
当時はとにかくアナログなので、針が微妙な位置にある時の読み取りは微妙。もちろん、読み取り時にメーターを見る姿勢とか、メーターに鏡がついていたらその鏡と指針の重なりで・・・といった決まりはあった。

基板製作実習の前だったか後だったか忘れたが、回路定数の決定という手順が有って、それは製作前だったか記憶がハッキリしないけど確かに有った。
基礎理論ばかり座学でやっていたが、ここにきてようやく、回路設計らしき事を経験できたので良かった。

だがその計算は相当な分量で、たかだか簡単な増幅回路といってもちゃんと計算すると大変だった。コンデンサの容量ひとつとっても実際に使う周波数などで決められる。
その計算手順をレポートにして出せ、と。

一番苦手なところだ。計算はダメダメだった。

当時の自分は良く理解できない部分もあり、クラスメイトに聞きながら、見様見真似のような状態で書いて提出したら、先生からここおかしいぞと指摘されたと思う。やり直しじゃなかったか。それとも提出前に呻吟していたような記憶がある。

そういえば、あの作った基板どうしたっけ。持ち帰って良かったはずだが、記念に保存してあるかなと。記憶がない。

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